白波に攫われる

 顔にぶわっと吹き付けたのは、潮の香りと水飛沫。目に映ったのは、黒い空に溶けてしまうような、白いさざなみ。耳に打ち付けたのは、ザザァ、ザザァ……という潮の満ち引く音。心臓が、ドク、一度鳴れば、潮が引き。ドク、一度鳴れば、潮が満ち。手を伸ばせば、ぐいと引かれてしまいそうな、そんな。
 久々に見る海は、とても綺麗だった。
 星空を映し、青くもない水面が煌めく。月を映し、白く光を照り返す。そこに、僕は少女を見た。セーラー服の、長い髪の、白い肌の、少女だ。彼女は切れ長の目を細めて、僕を手招きした。
 僕は呆然としてしばらくそこに立っていた。彼女が微笑むと、潮が引いていく。おいで、おいで、と言っているかのようで。されど、言葉など発さず。ただ、足を海に浸けて、静かに微笑んでいるのだ。
「君、は……?」
 僕の質問にも、彼女は何も答えなかった。代わりに、ザザァ、と潮が引く音を返した。
 そちらへ、歩んでしまいそうで、僕は目を見開いて、その目に海を映して、一歩、一歩──そこで、太腿に当てられたスタンガン──バイブレーションが僕を正気に戻した。
 慌ててスマートフォンを手に取る。ミユキからの連絡だった。
──今日も遅いの? 大変だね。サチはもう寝たから、起こさないように帰ってきてね。ご飯は作ってあるから、ちゃんと食べるんだよ!
 はっとして海を見ると、もうそこに少女はいなかった。僕はすぐに踵を返すと、急ぎ足で砂浜を蹴った。
 背後で、さざなみが僕を惜しむように、ザァ、と泣いていた。

「いやぁ、今日も一件契約を取ったんだって!? さすが、期待の新人だよ!」
「いえ、ありがとうございます。ご教授いただいたことを実践しただけです」
 上司が僕の肩を叩いた。ありがとうございます、と言って笑顔になる。「笑顔になる」という表現はどこかおかしいけれど、それが正解だ。口角は僕の物じゃないみたいにキツく固く痛く強張っているからだ。
「このままなら新人賞も狙えるかもね。楽しみだね!」
「はい、とっても。そうなったら、課長のおかげです」
「そんなぁ、ナナミ君の功績だよ。ちゃんと自分を誇りなよ」
「いえ、そんな……」
 僕は肩を縮こまらせて笑った。口角が痛い。上手く、笑えない気がする。
 でも、とても嬉しいのは事実だ。新人賞を貰えたら、それだけお金が入ってくる。他の同僚よりも一歩進んでいるという評価を頂いている! ミユキもサチも喜んでくれるだろう。ボーナスが弾むと言ったら、ミユキは小躍りしていたっけ。
 そう思うと、上手く笑えないことを除けば、全ては順調だった。
「ところで、その弁当は奥さんが?」
「あぁ、はい。そうなんです。毎日作ってくれてて……」
「お子さんもいるのに、奥さんも大変だねぇ」
「本当に。感謝を忘れないようにしないと、ですね」
 僕はそんなことを言って、すぐミユキに連絡を入れた。今日も美味しかったよ、ごちそうさま。食べきった弁当箱と自分がピースした手を写真に撮れば、ミユキはすぐ連絡を返してくれる。
──お粗末様でした!
 にっこり笑顔のスタンプに、僕はほっと胸を撫で下ろした。
 さて、昼飯を終えたら仕事に戻らないと。今日は何時に帰れるだろうか? 契約を取れた分、仕事は嵩んでいるけれど、嬉しい悲鳴だ。机には無数の付箋、無数のトゥドゥリスト。
「それじゃ、ナナミ君。困ったことがあったらいつでも訊いてね。仕事も多いと思うけど、無理せず頑張るんだよ」
「はい、ありがとうございます!」
 元気な返事、お辞儀は浅めで。爽やかな笑顔を損なわないように。今日は契約じゃなくて事務仕事の日だ。マウスウォッシュで口の中を綺麗にしてから、すっきりした気持ちで仕事の山へと身を投じた。

 仕事帰り、車を走らせながら、またあの海を通りかかった。
 僕の生まれた故郷たる島と比べると、あの海はあまり綺麗ではない。故郷の海は青緑色で、砂浜だって白かった。ここの海は白くて、砂浜は黒い。それでも、さざなみの音を聞くと、どうしても足を止めたくなってしまう。
 腕時計に目を落とす。父さんが買ってくれた、三万はするものだ。防水加工はされていなかったから、気をつけないと。時間は十一時。帰りはきっと、日付を越すだろう。
「……少しだけなら、怒られないかな……」
 僕はそんなことを呟き、駐車場に車を止めた。真夜中の海に人はいない。砂に足を取られそうになりながら、足音を立てないように近づいていくと、そこにあの少女はまた立っていた。
 海に近づき、彼女が微笑むだけで、舌先がぶわっとしょっぱくなる。嗚呼、懐かしい、帰ってきたんだ、と感じる。なぜだろう、別に僕はこの海で生まれ育ったわけではないのに。それでも、少女の消え入りそうな微笑みと、僕に押し寄せる波を見るだけで、まるで僕を待っていたかのように感じるのだ。
「君は、何て名前なの?」
 少女は答えない。ただ、無口に微笑んでいる。白い月、白いさざなみ。その二つが相俟って、白く微笑んでいるように見える。
「シラナミさん」
 僕がそう名前をつけると、彼女はほんの少し嬉しそうに口角を上げた気がした。サァ、と波が穏やかに僕を誘う。
 顔が整っているわけではなかった、ミユキに比べたら全然だ。けれども、僕はシラナミさんを、綺麗だと思った。それはまるでこの海のようで、きっと人々にとっては取るに足りない海で、名前も知られていないような海だというのに似ている。いや、海というものが元来そんなに綺麗な存在ではないのかもしれない──
 そんな詩的な思いに駆られていると、シラナミさんが僕の手を取った。ひやり、手に冷たい感覚が伝う。僕は気がつけば、海水を手に取っていた。その途端、鼻に吹き付ける潮の香りが強くなる。きゅうと胸を締め付けるような、どこかわくわくするような香りだ。
 さらさらと、手から水と砂が零れ落ちる。その感覚は、シラナミさんの髪を触っているかのようだった。
「おいで、って言ってるんだね」
 こくん、とシラナミさんは頷いた。
 僕は深呼吸する。嗚呼、息ができる。肺の奥まで、穢れ無い空気が入り込んでくる。固くなっていた口角が緩む。
 ……ずっとここにいたい。
 そんな想いが、僕の頭に過った。いや、いけない。家でミユキが待っている。きっと一人でサチの面倒を見ていたから、疲労困憊に違い無い。今度は僕が帰って、彼女を寝かせてやらないと。
 そうだ、幻想に身を焦がすなんて、愚かな真似はしてはいけないのだ。
「ごめんね、シラナミさん。もう帰らないと」
 僕がそう言うと、彼女は細い眉を下げ、ペイルブルーに微笑んだ。サァ、と音がして、彼女を呑み込んでいく。
 彼女が消えていくのを眺めてから、僕は身を翻し、車へと急いだ。そういえば、腕時計は大丈夫だろうか、と思って慌てて文字盤を見ると、少し濡れていたけれど、ちゃんと十二時を指していた。良かった。

「ただいま。遅くなってごめんね、ミユキ」
「おかえり。良いんだよ。サチ、今寝たところだから、できるだけ静かにね」
 ミユキがそう言って微笑む。少し疲れているようだ、白い肌がさらに白くなっている。烏羽玉の黒髪も、綺麗ながらも少し乱れている。やはり、一分一秒でも早く帰ってくるべきだった……いや、ミユキは僕が海なんかで遊んでいたことを知らないのだ。そんなことは口が裂けても言えない。
 大根の煮物、味噌汁、白いご飯、焼いたホッケ。サチの世話で大変だろうに、ミユキのご飯はいつも豪勢だ。バランスも取れている。自分も疲れているだろうに、ミユキはいつも対岸に座って、その大きくくりっとした目で僕を楽しそうに見つめるのだった。
「いただきます……うん、今日も美味しい。昼飯もだけど、とっても美味しいよ」
「ホント? ありがとう、そう言ってくれるからいつも頑張れちゃうんだ」
「あんまり頑張りすぎないでね。いや、僕が言っても駄目なんだけどさ……いつもいつもこんなに遅くて、ごめんね」
「良いの良いの。それだけシュウ君が頑張ってる、ってことでしょ。私は私で、お家で頑張ってるから、いっぱい稼いできてね、なんちゃって」
 なんちゃって、と言って舌を出してみるその姿も可愛らしい。決して本気ではないのが見て取れる。世間一般の女性は夫をエーティーエムか何かと扱うけれど、ミユキはそんなことをしない妻だ。僕も僕で、彼女を育児マシーンにしないように頑張っている。
 ごちそうさま、と声をかけると、ミユキは、お粗末様でした、と甘い声で言い、大きく欠伸をした。それから申し訳無さそうに黒髪の隙間から、黒真珠の瞳で訴えかける。
「それじゃあ……一睡して良い? もちろん、三十分したら起きてくるからさ」
「良いよ、好きなだけ寝てね。僕が仕事に行くまでは見てるから」
「でも、それじゃあシュウ君が寝る時間が──」
「大丈夫だよ、ミユキが寝るほうが大切だ。それに、いつもなんだかんだ寝かせてくれるからね、サチは」
 そう会話をしながら、ベビーベッドへと向かう。ベビーベッドでは、美麗な顔をした赤ん坊が、スヤスヤと寝息を立てていた。
「ホント、ミユキによく似て美人だね」
 僕が小声でそう言うと、ミユキは同じく小さな声でクスクスと笑った。まるで鈴を転がすような、可愛らしい声だ。
「ううん、シュウ君に似たんだよ」
 ミユキはそう言ってベッドへと戻っていった。僕は代わりにサチを眺め、腰を下ろす。
 就職する前から付き合っていて、就職すると同時に子供が生まれて。そんな状況なのに、上司は喜んで受け入れてくれたし、ミユキも喜んで専業主婦になってくれた。僕がこうして長い間働けるのも、周りの人のおかげだ。
 幸せに生きてほしいという願いを込めた、サチという少女は、これからどんなふうに大きくなっていくのだろう。ソレを見届けるのが、僕の仕事だ。
 僕はそう思いながらサチのまだ髪の少ない頭を撫でた。フフ、と声を立てて笑った彼女に、僕はいびつな笑みを返した。嗚呼、上手くないなぁ。

「シラナミさん。今日は僕、水着を持ってきたんだ。久々だから、泳げるか分からないけど」
 そう言って僕が笑いかけると、シラナミさんは目を煌めかせて手を伸ばした。
 今日は会社に泊まると伝えてある。ミユキには申し訳無いと思いつつも、これが初めての嘘だ。そして、一回きりの嘘だ。
 あれから何度かここを訪れている。この海の名前はまだ知らないけれど、やはり夜になると人がいなくて、人々にとってはつまらない海なのだろうと感じる。でも、僕にとってはそうじゃない。いつ来ても僕を出迎えてくれる、実家のような存在だ。
 腕時計を外し、水着に着替え、海へと飛び込んだ。バシャーン、音がすると同時に、冷たい感覚が体を襲う。まるで体の奥まで凍るような、きんとした冷たさだ。たとえ夏でも、夜になると海は冷たい。されど、僕が来られるのはこんな真夜中しか無いのだ。
 シラナミさんはその飛沫を見て、肩を揺らして笑った。笑い声の代わりに、海がサァサァと笑った。僕がクロールを始めれば、シラナミさんは後ろから泳いでくる。人々が気にするかもしれないなんて忘れて、僕は何度も何度も足を海に打ち付けた。少しも進んでいない。僕は一人笑い声を漏らす。
「あー、下手になったなぁ」
 そんな独り言も、シラナミさんはクスクス笑いながら聴いてくれている。どうしてだろう、その声が、海のさざなみが優しくて、僕は嬉しくて仕方が無かった。
 一心不乱に波を掻き分けると、優しく包み込まれる。顔いっぱいに潮の匂いが吹き付けて、ぎゅっと抱擁されているみたいだ。
 息継ぎをするたび、頭上の月と目が合う。同時に、シラナミさんの声が聞こえてくる気がする。
 ねぇ、どう? 海で泳ぐのは。とっても気持ち良いでしょ?
 そんなことを言われているみたいで、心の底から僕は、こんなことを叫ぶのだった。
「うん、楽しいよ、シラナミさん!」
 海は喜んだように、大きな波を返す。体が押されて、砂浜に寝転ぶ。
「嗚呼、帰りたくないなぁ」
 そう呟いてから、僕は口を押さえる。あれ、言わないようにしていたのに、どうして。僕は顔が青ざめていくような感覚に襲われる。
 違う、違う、そんなこと言ってはいけない。そんなこと、考えてはいけない。だって、そんなの、ミユキにも、サチにも、上司にも、父さんにも母さんにもばあちゃんにもじいちゃんにも皆々に迷惑で──
 そんなときだった。
 顔に、水が押し寄せてくる。思わず、ぶっ、と声を出して水を吹き出す。見上げれば、シラナミさんが僕を見下ろしていた。
 まるで、そう、聖母のような、まあるくて黒い瞳で。それから、僕をぎゅっと抱き締めた。
 最初は冷たかったはずの水が、気が付けば温かく感じるようになっていた。
「……帰りたくないよぉ……」
 そう、こぼした途端、僕は涙が止まらなくなった。しゃくり上げて、まるで子供が、いや、赤子が泣くように泣き喚いた。
 帰りたくない、帰りたくない、と。
 その間もずっと、ずっとずっと、海は僕を抱き締めていてくれた。

 あの日以来、僕は海に出向くことを避けるようになっていた。ミユキに申し訳無いし、翌日全身筋肉痛になって仕事に差し支えたからだ。
 今も湿った水着が車の中にある。ミユキにはバレていないけれど、いつかそっと洗濯機に放り込んでおこう。
 壁を見る。そこには営業成績が書かれた紙が貼られていて、僕はこの部署で一番みたいだ。棒グラフが「歴代最多契約数」の線に達しそうになっている。僕がそちらをぼーっと見つめていると、背後から上司が話しかけてきた。
「やっぱり気になるかい? ナナミ君」
「わっ! す、すみません、ちょっとぼーっとしてて……」
「良いんだよ。これだけの成績を残しているから、皆君のことを良く噂しているんだ。ナナミ君を見習わないと、ってね」
 心が踊るような感覚、と同時に、なんだか居た堪れない感覚。喉がきゅっと詰まる感覚。決して快の感情ではないソレに、僕は戸惑いを覚えていた。どうして、喜ばなければならないのに。
 急いで笑顔を取り繕い、僕は上司を見上げた。できるだけ、爽やかな新人を装って。
「それだけ、多くの人の思いを背負ってるってことだね、ナナミ君は」
「そう、ですね。多くの人の、思いを……」
「ナナミ君は、契約してくれた人の気持ちを考えたことがあるかい?」
 突然の話に、思考が止まる。契約してくれた人の気持ち、か。営業なんて、人をモノ扱いして当然なのに。嗚呼、でも、課長にもなると、そういうことも考えるようになるのか。
 課長はどこか誇らしげに、楽しそうに微笑んで、話を続けた。
「契約してくれた人たちはね、ナナミ君や私たちを信用してくれているんだ。だから、その気持ちを裏切っちゃいけないな、と思わされる。ナナミ君はどう思う?」
「え……はい、僕もそう思います」
「そうだよね、そうだと嬉しいよ。その信用が、会社を保たせてくれてる……ソレに報いなければ、という気持ちが、ナナミ君にも生まれてくれれば、会社としては十分だよ」
「はい」
「だから、営業成績が高い分、その分仕事をするっていうのは当然なんだ。ソレだけの責任が伴う。ソレだけの人の思いを、ナナミ君は大切にしなければいけないね。もちろん、できることがあれば、私たちも手伝うから安心してね」
 きゅっ。
 喉が絞まる音、だった。
 なんで、なんでだろう。こんなに誇らしげに、楽しそうに話している、明るい話が。僕の喉を、確実に殺そうと、絞め上げたのだった。
 僕は、上手く、笑えなかった。
「……はい、ありがとうございます! 頑張ります!」
「うん、頑張ってね。それじゃあ」
 嗚呼、そうだ、なんて素晴らしい話で、なんて素敵な結果で、なんて良いことで、僕は。どうしてこんなに息ができないのだろう。
 息が、したい。息がしたい。早く帰らないと。ミユキの元に、帰らないと。
 僕は仕事に向き直って、必死になってこの山を終わらせようと指を動かした。そうでもしないと、この胸を締め付ける何かに殺されてしまいそうな気がして。

「ただいま、ミユキ」
「おかえり、シュウ君。あ、今日はサチ、まだ寝てないんだ。だから寝かせるの手伝ってくれると嬉しい!」
「うん、分かったよ。ほーらサチ、お父さんが帰ってきたぞぉ」
 僕がそう話しかければ、賢いサチは僕に笑いかけてくれた。まるで僕のことが父親と分かっているかのように。
 そんなことを思っていると、ミユキが僕にこんな話をしてくれた。
「サチね、喋れるようになったんだよねー! ね、ほら、私のことは何て言うの?」
「まま!」
「そう! じゃあこっちは?」
「ぱぱ!」
 僕はその言葉に胸が締まるような──締まるような? 感覚を覚えた。嗚呼、ついにここまで喋れるようになって、僕は父親らしくなってきたということだ。
 感慨深さは涙に至る。だというのに、ソレを嬉しさと捉えられないのはどうしてだろうか。
「あー、パパ泣いちゃった。嬉しすぎたんだね!」
「──うん、嬉しいよ、サチ。サチは賢いねぇ」
「まま、ぱぱ!」
 サチがキャッキャと声を上げてこちらを見つめてくる。なんて幼気で可愛らしいのだろう。我が子だからか、ミユキによく似て美形だからか、サルみたいと揶揄されるその顔だって、素晴らしく綺麗だ。
「ほら、今日は一緒にご飯食べようね! ママがミルク飲ませるから、パパはご飯食べようね!」
 ミユキはいつもより色のある顔ではにかんだ。僕に向けて、サチに向けて。
「ねぇ、シュウ君、今日も遅かったけど……やっぱり、大変?」
 こんなに幸せそうに首を傾げる、可愛い可愛い僕の妻。僕のミユキ。だから、僕は。
「──いいや? そういや、新人賞貰えるかもって、上司が」
「ホント!? シュウ君の頑張りの成果だよ! いつも応援してて良かったぁ!」
 だから僕は、君の嬉しそうな顔が、好きだよ。

 来てはいけない。そうは分かっていたのに、気が付けばまた、僕はここにきていた。
 そう、僕の居場所は、ここしか無いって、君もそう言うよね、シラナミさん。
 生まれたときから、島育ち。学校が終ってからは、ずっとずっと海で遊んでいた。そんな頃を思い出す。
 まだ水着は洗っていないから、今日はスーツ姿で泳ぐことになるけれど、まぁ良いか、なんて思わされるのだ。
 シラナミさんは僕に笑いかける。その違和感に気がつくのは一瞬だった。彼女は珍しく、セーラー服ではなく白無垢を着ていたのだった。裾を海に浸し、顔を上げ、にこりと笑う。
 そういえば、僕はミユキを好きになる前は、何となく年上の女性に憧れていたような気がする。あくまで、学生時代の話だけれど。誰という人がいたわけではないけれど、誰か年上のお姉さんのそばで生きてみたいと思っていた頃があった気がする。今では、年下のミユキとこうして籍を入れたのだけれど。だから、シラナミさんはそんな、「年上の先輩」らしい姿で現れたのかな、なんて思ってしまう。
 おいで、と手招くたび、潮が引いていく。ゆっくり、ゆっくりと。僕を引き込むように。
 白く丸い月が僕を見下ろしている。嗚呼、でも、ツキはもう無いみたいだ。僕はもう、どこにも行けないみたいだ。
 だって、こんなにも、こんなにも、ここは、息がしやすいのだから。
 大きく息を吸う。潮が胸の奥まで入り込んで、少し咳き込んでしまう。波が白無垢の裾のように靡いている。黒い海が、白い海へと。婚姻を誘うように色付いて、なんて艶めかしいのだろう。耳を撫ぜるように、ザァザァ、と心地良い音がする。
 美しい。
 僕はソレ以外の言葉で、海を形容できる言葉を知らない。
「シラナミさん、僕は」
 僕は。そこで一度言葉が詰まった。それでもなお、吐き出す。吐き出したらもう、元には戻れないのに。
「僕は、どうして、正常に生きられないのかな」
 シラナミさんは僕を見つめ、首を傾げる。黒い瞳は、黒い砂浜と一緒の色。
「ねぇ、どうしてだろう! こんなに、こんなに、僕の手からこぼれ落ちてしまうほど幸せなのに、どうして『死にたい』だなんて稚拙な思いしか出てこないんだろう!」
 叫ぶ。叫べば叫ぶほど、僕の涙は海色に溶けていく。
「どうして、僕は、どうして……ッ!」
 喉が潮で焼けて叫べなくなると。シラナミさんが僕の頬に手を当てた。
 僕のことを、何とも美しい微笑みで、ひんやりとした手で、潮の香りで、包み込むみたいに。
「……嗚呼、唖々……」
 僕は一歩、一歩、一歩と、海へと足を踏み入れていった。サク、サク、砂浜を踏みしめて。
 冷たく無情で恐ろしい、されど温かく有情で優しい海水が、僕の足を攫い続ける。
「ごめんなさい、ミユキ、サチ、母さん、父さん……」
 シラナミさんが僕の腕を引く。一緒に海の底へと沈んでいく。隣で、花嫁のように。
 膝へ、太腿へ、腰へ、海水は徐々に僕を攫って、そして。
 あるところで、一気に僕のことを呑み込んだ。
 ……駆け落ちなんて、最低だけど。でも、ここでなら、僕は、上手く笑える気がするんだ。

 ただいま、僕たちの海。

 息ができなくなる。あんなに幸せな空気はどこへやら。上も下も分からないまま悶える。目を開けば、下は真っ黒で、怪物が口を開いたみたいだ。シラナミさんはたおやかな笑みを浮かべたまま、僕の腕を引いて離さない。
 嗚呼、あんなに美しい海はどこへやら。されど、これで良かったんだ。これが、海と結婚するということだから。
 意識が堕ちゆく中、シラナミさんが、海が、ずっと隣で僕のことを抱き締めていてくれるのを、感じていた。

 ……日が昇る。満月は沈み、太陽が世界を支配する。そこにあの魅惑的な、美しい夜の海は無い。
ただただ、在り来りで何とも無い海が、名前も評判も無い海があるだけだ。
 砂浜には、シチズンの青い時計が打ち上げられていた。



―――「白波に攫われる」神崎閼果利さまより