真珠鳥

わたしが「まだま」を初めて見たのは海辺で、初めて会ったのも海辺だった。前者はこの辺りでは真珠鳥しんじゅどりとも呼ぶ鳥で、本当の名前はまったく違うものらしいがいつの頃からかそう呼ばれているらしい。一見、どこが真珠なのかと思うほどに黒い鳥を指差した後者の「まだま」は、
「あれが真珠鳥、長いからまだま。私もそう、呼ばれてる」
 真珠を思わせる白い右目と、わたしと同じ黒い左目でこちらを見て、歯を見せた。潮の匂いに混じって咲き乱れる花の香りがする。人のまだまは続ける。
 鳥のまだまは黒いが、時折真珠のように美しい白い卵を産み、そこから孵化したまだまは同じく真珠のように照り映える白い鳥になるという。
「真珠ってのは、海神の涙らしいよ。で、その涙から生まれるのは海で死んだ陸のものの、生まれ変わりだとか」
 まだまは遠い目で灰色の海を見、
「だから私も姉さんの生まれ変わりなんだって。困ったもんだよ本当に。私はなんにも、覚えてない」
 唇の右側だけを引き上げてそう呟いた。岩と砂、そして草ばかりの海辺に風を遮るものはなく、絶えず唸るような音が耳の奥で渦巻いている。ごうごう、どうどう。まだまの長い髪は風に弄ばれて表情が見えない。
「どうしてここに?」
 ここへ来たのはいつの間にか失った眠りを探すためだった。ある日突然逃げ出した眠りがどこかで私を待っている。そんな想像でいくつもの夜を乗り越えてきたが、いい加減落ち着かないので本当に探してみることにしたのだ。
 決意したバスの中で耳へ飛び込んで来た「真珠」で検索し、見つけたのがこの海辺の町だった。生まれ変わりの鳥、という名前で掲載されていた艶めいた白い鳥ならわたしの眠りがどこにいるのか知っているかも、直感に従って電車とバスを乗り継いでやって来た町は岩と砂と草、そして風で出来ていた。海と同じ灰青の空を、小さな黒い影が横切っていく。さて、と海辺で座り込んだわたしに、突然話しかけてきたのがまだまだった。
 正直に答えても、嘘をついてもおさまりが悪い気がしてもごもご口を動かしていると、
「言いたくないならいいよ。私はまだま、本当は鳩子。どっちにしろ鳥なんだけど」
「あぁそれなら。湯ヶ原ゆがはらです」
「ゆがはらさん」
 髪を押さえてわたしを見るまだまの右目はやはり白く、不思議な光をたたえている。あまり見つめては失礼だろう、そう思うのに視線が惹き込まれてしまう。まだまは気にする素振りを見せず、
「うちに来ない?」
 暴れる白いワンピースの裾を掴みながら首を傾げた。鳥のまだまが低い声で何かを歌うのが聞こえる。
「人と話すの、久しぶりだからもっと話していたいの。部屋と食事は任せて、お代はいいから。何をしに来たにしても節約した方がいいでしょ」
 楽しげな口調は大人びているが、まだ年若くも見える顔にまたもごもごと口を動かす羽目になり、今度はまだまも遮ることなく、わたしの返答を待っていた。風の音。
「……よろしくお願いします」
 事実、眠りがいつ見つかるかもわからない。締められるところは締めておこう、そう判断して頭を下げるとまだまは顔をほころばせ、
「じゃあ早速行こうか」
 あと、と首をぐるりと回して、
「白いまだまは今いないよ。あれは夜に出てくるの、陽が嫌いみたいだから」
 私もあんまり好きじゃないと笑いながら海に沿って歩き出す。鞄を手に立ち上がり、ひらひらと遊ぶワンピースを追いかけていく。黒いまだまが何羽も空に模様を作るのを横目に、道なき道、枯れた色の草をかき分けて進む。砂地はあまりに頼りなく歩くのは難しそうだ。
 人のまだまも上機嫌に何かを歌っているようで音符が前から流れてくる。わたしは腰まである草をかき分け踏みしめるのに精一杯で、音符がどんな歌の一部かわからないまま、ミの音だけ繰り返してみた。まだまはワンピースにサンダルという軽装なのに足が痛くなったりはしないのだろうか。
 少しの時間が流れ、塔か灯台のようなシルエットの建物が突然視界に現れた。土地が急に高くなりその上に建っているからだろう、まだまは建物を目指して斜面を上がり始める。わたしも鞄を持ち直し続いていく。
 建物は近づけば近づくほど塔のようにそびえ立ち、わたし達を待っていた。赤い屋根は流れてきた時に合わせてくすみをまとっているが、どこか抜けた雰囲気を演出している。
「着いたよ、さあ入って」
「お邪魔します」
 金属と木が調和した扉の向こうにはあまり生活感がなく、それでいて穏やかな空気が流れていた。玄関横の靴箱にはフォトフレームがあり、幼いまだまらしい少女と壮年の女性が並んで収まっている。
「私以外いないから気を遣わなくていいよ。部屋はこう見えて多いから、たまにゆがはらさんみたいな人に貸したりしてるの、だから綺麗なはず」
 サンダルを脱いで振り向いたまだまはわたしが何を見ているのか気づき、また唇の右側だけを上げて、
「それはお母さんと私。お母さんは今都会で暮らしてるの、私がまだまなのに鳩子じゃないからって言ってたわ」
「あなたは鳩子さんなんじゃ」
「そう。嘘じゃないの、ただ姉さんも鳩子だったの。私の右目はいつまで経っても孵化しない」
 鳥じゃないと駄目なのかも、そのままリビングらしい部屋へ入っていく。白く滑らかな床。言葉の意味を考えながらわたしも靴を脱ぎ、滑ってしまいそうな気がして恐る恐る足を踏み出した。足は無事に床を踏みしめてリビングへと進む。
 一面が窓のようなリビングを抜け、奥にある階段を上り二階へ。右と左に部屋があり、まだまは左の部屋へ入りここを使ってと窓を開けた。窓の木枠が鳴り、空はもちろん、草と岩と海がよく見える。波があちこちで飛び跳ねていた。

 夜の、海だ。
 青と黒と灰色が何層にも重なり、引きつ戻りつ色を変えている水を真珠にしては大きな白い丸が照らしている。月だと気づく前に横の草むらから何かがそこへ向かい、一直線に飛び出す。目標へ真っ直ぐ飛ぶのはカラスだと聞いた、わたしの前に飛んできたのは白い鳥。まだま、意識せずこぼれた声に振り向いた鳥の右目を認識する寸前、広がったのは白木の天井だった。
 眠りを失っていても意識は途切れることがあり、その時に脳は眠っているのかもしれないがわたしの感覚としてはどうにもそんな気がしない。眠りとはもっと穏やかでおぼろげなもののはず。今、もしかしたら見ていた光景なのではとベッドから窓の外を見ると昼間の曇天とは打って変わり、星がいくつか瞬いている。白いまだまは夜に出てくると人のまだまは言っていた。会いたい。
 部屋を出た途端に野菜とコンソメの香りが立ち込める。階段の途中でそこに鶏の旨味が加わり、リビングへ入った時にはパンの香ばしさも加わって夕飯が完成されていた。
「呼びに行こうかと思ってた。素敵なタイミングだね」
「それは良かった。美味しそうな香りですね、鳩子さん」
「まだまがいいな」
「まだまさん」
 うんと頷いたまだまは昼間のワンピースにざっくりとしたカーディガンを重ねていたが、足元は変わらず裸足だった。大きなスープボウルになみなみとチキンスープをよそい、温め直したパンと、レタスにトマトを載せただけのシンプルなサラダが横に並ぶ。どこか異国のような食卓を囲み、まだまはわたしにたくさんの何故を投げてきた。何をしているのか、旅はいつからか、鳥は好きか。その中でも一度答えなかったからか、どうしてここに来たのかとは聞かない。
 日常のあれこれを書き綴って何とか生活していること、まだ旅は始まったばかりであること、そして鳥は今まで気にしたことがなかったこと。最後の答えを聞いたまだまはあらと目を大きくし、
「それなのにここへ来たの」
 ちぎったパンにバターをつけながら不思議そうに言った。
「白いまだまが、わたしの失くしたものを知っているんじゃないかと思って」
 今度はすんなりと言葉が出てくる。眠りという言葉を使わなかったからかもしれない。失われたものは言葉としてもわたしの中にないらしい。パン屑がぽろぽろと落ちる。
「私は知らないけど、白い鳥のまだまなら知っているかもしれないのね」
 白い右目と黒い左目が同時にわたしを見た。頷くと、
「ゆがはらさんは生まれ変わりってあると思う?」
 パンをかじりながら、何でもないことのように声を出す。
「わたしが知らないだけで、もしかしたら誰もがそうなのかもと思ったことはあります。初めての場所に行った時に来たことがある気がするとか、そういう感じのことを聞くので」
 それはきっと前のわたしが知っていたことなのだ。父が語った時に感じたことを思い出す。わたしはまだ前のわたしに追いつけていないらしく、その感覚には縁がない。チキンスープにはたくさんのハーブが使われていて、複雑で楽しい香りがした。
「皆そうなら、きっとその中には自分が白いまだまだって知らない人もいるわね。私は右目が孵化しないから思い出せないけれど、孵化しているなら卵もないし、記憶も取り戻しているだろうから」
「なら、わたしは違いそうですね」
「だね」
 真珠のような卵から生まれる、生まれ変わりの白い鳥。孵化したまだまは生まれ変わる前の自分を覚えているのだろうか。カーテンがかけられていない窓から見える空に月が浮かんでいる。スープもパンもサラダも食べ終わり、テーブルではパン屑が星座を描いていた。
「白いまだまを見に行くんでしょう。ついて行ってもいい?」
「喜んで。むしろお願いしようと思ってました」
「良かった」
 まだまは今度は黒い革靴を履き、わたしは鞄から引っ張り出したニットをシャツに重ねて外へ出る。風と競る虫の音と波音が驚くほどに賑やかな海辺をまた、まだまの背を追いかけて歩いた。夜の澄んだ空気の中、潮の香りがくっきりと形を持っている。ニットはまだ早かったかもしれない。シャツが湿り気を帯びてきたところでまだまが振り向き、
「失くしたもの、見つかるといいね」
 晴れやかな顔で草むらの先を指差した。岩と砂が交じり合った場所に白い光が鳥の形をしている。内側から照るような柔らかな白は確かに真珠を思わせ、昼間に見た黒いまだまとは違う生き物のようだった。
「白いまだまは今、二羽しかいないの。最近海は穏やかだったから」
 でも今日は一羽しかいないみたい。まだまの言う通り、白いまだまは一羽で岩と岩を跳ねるような足取りで進んでいる。
「白いまだまは夜行性なんですか」
 見失わないよう白いまだまに合わせて移動しつつ、夕飯時に聞きそびれた疑問をたずねると、
「そんなことはないって誰かが調べていたけど、私は夜にしか見たことがないな。海神も夜が好きで夜に出てくるって話もあるから、その時に白いまだまを呼んでいるのかもね。私も夜のほうが好き」
 流れる髪を押さえながら答えてくれた。眠れないわたしにはありがたい。白いまだまは餌となる魚を探しているのか、時折海面をつついては移動するサイクルを繰り返している。波の合間に誰かを呼ぶような鳴き声が響く。ベッドの上で見た光景はやはり夢ではなかったのかも、そう思った時、まだまへもうひとつ聞きそびれたことが浮かぶ。
「まだまさん」
「まだまでいいのに」
 白いまだまとは距離を取りつつも草むらから岩場へ歩を進めていたまだまが、笑い声を上げた。ゆっくりと後を追い、岩場に進むとごつごつとした感触が靴越しに伝わる。いつのまにか煌々と照っていた月の光がまんべんなく降り注ぎ、白いまだまはもちろん、人のまだまもわたしも、海も草も岩も砂もほの白く光っているようだった。こんな夜に眠ることが出来たらさぞ気持ちいいだろう。
「右目、孵化してほしいですか」
 白いまだまが月へ向かうよう飛び立つ。振り向いたのは鳥ではなく人のまだまだった。白い右目も月光に照らされている。
「どうだろうね。鳩子になるには時間が経ちすぎた気もするし、今からでも間に合うような気もするし」
 右側がない世界もいいものなんだよ、呟いてまだまは月の方を向いた。わたしもその視線を追いかけて顔を上げれば、白いまだまが夜空を軽やかに切るのが見える。海へ抗うようにも、これから飛び込んでいくようにも見える姿に、このまま飛んでいけ、わたしはそっと呟いた。眠りも、ましてや生まれ変わりなんか気にせずこのままどこまでも。
「さて、どうしようかゆがはらさん。白いまだま、あなたの失くしたものを教えてくれそう?」
 まだまはわたしへ向き直り、夜が更けると寒くなるんだとカーディガンの合わせ目を握り締めた。言われてみれば汗ばんだほどの暖かさはすっかり消え失せている。海風や波と共に冷えた空気が押し寄せているようだった。
「いえ。白いまだまはそんなこと、知らなくていいんだとわかりました。きっと他のところにあるんだと思います。気長に、探します」
 わたしは一度言葉を切り、右手をまだまへ差し出す。
「ありがとうございました、まだまさん」
「どういたしまして、ゆがはらさん」
 まだまはわたしの右手を左手で握り、そのまま塔へと歩き出した。誰かと手を繋ぐのは初めてだったが手のひらは温かく、いつかの眠気によく似ている。まだまはまた歌っている。安心と心地よさ。再び身を預けたベッドでも眠りはやってこなかったが、わたしはどこまでも海の上を飛ぶ白いまだまの姿を朝まで見続けていた。



―――「真珠鳥」朝本箍さまより