夕凪

 夢を見る。
ここのところ、毎日同じ夢を。

 足元から細い道が俺の前後に伸びている。
 固く踏み固められた農道は、真夏の太陽に照らされて白く浮き上がって見える。
 振り返れば夏草の生い茂る道端は緩やかにカーブをしながら下っていく。
この道をいくと堤防道路へ突き当たり、高さ二メートルの堤防の向こうには水平線が広がっていることを夢の中の俺は知っている。
 しかし俺は振り返らず、坂の上を見上げる。
 そこにはつばの大きな帽子をかぶったワンピース姿の女性が立っている。
 良く晴れた夏の日、時刻は正午。真上から照らす太陽の光は物体の影を最小限に押しとどめる。青い空にやたらと立体的な入道雲がその輪郭を見せつけ、近くの蝉時雨と遠くの潮騒がアンサンブルを奏でる。
 乾いた土がむき出しの道に太陽光が反射する。
 色がはじけ飛び世界は白に染まる。
虹彩は瞳孔括約筋を引き絞って必死に光の侵入を拒むが、太陽光は数の暴力でもって視界を焼く。

 白い世界に女性が一人立っている。
くっきりとした入道雲とは対照的に彼女の輪郭はおぼろげに揺らめく。俺は彼女の表情が見たくて近づこうとするのだが、金縛りにあったかのように体が動かない。
そうしていつも朝を迎えるのだ。

 アラームの音で目を覚ます。手を伸ばして目覚まし時計のスイッチを押すと、自ずと隣に置かれたフレームに目が行く。それはさっきまで夢に見ていた場所、中学まで住んでいた離島。俺の故郷の写真だ。
 俺はベッドから起き上がりフレームを手に取る。島の人間にとっては珍しくもないありふれた海辺の風景写真だ。俺は15歳までこの島で育った。

 まだ半分夢の中にいた俺の思考は現実世界より過去に馴染みがいいらしい。
俺はぼんやりと郷愁に浸る。

俺たちの住む島には学校がなく、俺と同い年の征吾、そして4つ年下の凪の3人は、毎朝本土にある学校まで船で通っていた。
 征吾と俺は部落も同じで親同士も仲が良かった。
「今日からうちの凪も一緒に連れてったってくれなぁ。」
 俺たちが小学5年生になったばかりの登校日。船着き場でおばさんから赤いランドセルを背負った凪を託された俺と征吾は、その日から3人で行動するようになった。

 凪は名前の通り静かな女の子だった。
親から離れても泣いたりせず、初日から黙って俺たちについてきた。
「俺、征吾な。こいつは拓海。よろしくな、凪!」
お節介で面倒見のいい兄貴肌の征吾は、かいがいしく凪の世話を焼いた。

 凪は休みの日も市場で働くおばさんに付いて来て、市場の休憩所で過ごしていた。
俺たちは休憩所まで行って凪を連れ出した。
 はじめのうちは一緒に浅瀬でウミウシを探したり亀の手を採ったりして遊んでいたが、やがて俺たちが崖から飛び込んだり素潜りをして銛で魚を突いたりするようになると、凪は岩場で本を読んだり、時折波打ち際でシーグラスを探したりして過ごすようになった。

 2年もすると俺たちは中学に上がり、凪は小学3年生になった。俺たちの通う学校は小中一貫校だったので、まだ俺たちは3人一緒だった。
「凪、ほれ! フナムシじゃ!」
 征吾がケースに入れたフナムシを近づけても、凪は騒いだりしなかった。
「なんや、おもろないな。驚かんのかい!」
 征吾は白けたような声を出す。
「学校に持っていったら本土の女子らはキャーキャーと大騒ぎしよったのに。」
「なんでフナムシなんか見て騒ぐん? 噛まんし毒もないし、こっちが寄ればサッと逃げる。なんも怖い虫じゃなかろう?」
 凪は不思議そうに首をかしげる。
「そら、『きもちわるーい!』とか『こわーい!』とか、女子は言うもんやろ?」
 征吾はクネクネと体をくねらせて黄色い声を真似している。
その様子を見て凪は笑った。
「フナムシにしてみたら、征吾の方がよっぽど気持ち悪いやろなぁ。」
「なんやて!? 海のゴキブリともいわれとるフナムシより、俺の方が気持ち悪いやと!?」
 征吾は心外だとばかりに語気を強める。
「ゴキブリは昆虫類に属しとるが、フナムシはエビやカニとおなじ甲殻類や。もっと言えばダンゴムシと同じ等脚目やからゴキブリとは系統が違う。」
 俺がそう説明してやると、征吾はフンと鼻を鳴らした。
「難しいことは俺には分からん!」
「拓海はやっぱり頭がいいんやなぁ。本土の有名な学校に行って大学の先生になるんやて、お母ちゃんが言ってたわ。」
「いけたらいいなってだけの話や、まだ先のことは分からん。」
 当時の俺は凪のまっすぐな称賛に照れて、そんな言葉で未来の話を濁していた。

 そこからの2年はあっという間に過ぎた。小学5年生の凪は島から船で学校に通う生活が継続するが、中学を卒業する俺と征吾には人生の分岐点が訪れた。
 俺は先生の強い勧めもあって有名高校の推薦入試を受けた。三月に合格の通知をもらうと俺の身辺は途端に慌ただしくなった。
 ほぼ身一つで上京した俺は、四月から東京で寮生活を始めた。
 集団生活に不安はあったが、都会の人付き合いは島のそれに比べるとずいぶんと淡白だった。寮と言っても一人部屋だったので、俺は気兼ねなく自分の勉強に没入した。
 寂しいという自覚はなかったが、ある時ふと西の壁を見る癖がついていることに気付いた。
 西側の壁には透明なシーグラスと革ひもでつくられたペンダントがかかっていた。それは島を出るときに『お守り代わりに』と凪がプレゼントしてくれたものだった。

 奨学金をもらっているとはいえ、この先大学まで進もうと思えば親にはそれ相応の経済的負担を負わせることになる。帰省するにも金がかかるので、正月も結局島には戻らなかった。

 小学生の凪はスマホなど持っていない。家の電話番号は知らないし、誰かを介してまで伝えなければならない話もない。島を出てから一年、凪とは一度もしゃべっていなかった。
 征吾は中学卒業後、島に残って親父さんの船に乗り込んで漁師の修行を始めると言っていた。
 俺のいないあの島で凪と征吾は一緒に暮らしている。東京での暮らしに不自由は感じていなかったが、二人のことを思うときだけチクリと俺の胸は痛んだ。 

 疎外感をごまかすために俺は勉強に明け暮れ、やがて国立の大学に進んで海洋学を専攻した。俺の書いた卒業論文は高い評価を集めた。イギリスの科学雑誌『Nature』に一部掲載されると、よくわからない取材依頼や講演依頼などが舞い込むようになった。
 人付き合いは苦手だ。俺は恩師の顔をつぶさない程度の依頼を何とかこなして日々をしのいだ。

 大学卒業とともに、俺は東京の古びたワンルームマンションを借りて一人暮らしを始めた。
引っ越ししてからも、西側の壁には凪からもらったペンダントをかけた。

 夢に出てくるあの女性は凪なんだろうか?
凪だとしたら一体どんな顔をしているんだろう?
一度も連絡してこない不義理者を蔑んでいるのだろうか?
寂しいと泣いていたりしないだろうか?
あるいは征吾と幸せになって笑っているのだろうか?
 論文制作に行き詰まると、俺は透明なシーグラスを見つめながらとりとめもなくそんなことを考えていた。

 15歳で島を出てから12年の月日が経っていた。研究のために世界の島々を渡り歩いたけれど、生まれ育ったあの島へは一度も戻っていなかった。
 俺と同い年の征吾は27歳、11歳だった凪は23歳になっているはずだ。妙齢の二人が俺のいない間にどのような関係になっているかなんて、考えるまでもない気がしていた。その事実をこの目で見るのが怖かった。

 6月のある日、大きな企業からオファーが届いた。リゾート開発のパイオニアだというその企業の本社に呼ばれた俺は、慣れないスーツを着て応接室に座っていた。
「実は新しい事業を手がけることになりましてね、先生には環境アセスメントをお願いしたいのですよ」
 スーツも慣れなければ先生と呼ばれることにも全く慣れない。さっさと適当な理由をつけて断ろうと思っていた矢先に差し出された資料の見出しを見て、俺は凍りついた。

硝子島しょうじしま?」

「さすが先生、正しい島名をちゃんとご存知とは恐れ入りますな。よく『ガラスじま』とか間違って呼ばれるらしいんですが、こちらは『硝子島しょうじしま』と言いましてね、まぁ取り立ててめぼしい特産物もない小さな島なんですわ。こちらを一大リゾート地にして経済を活性化させる画期的な事業なわけでして!!」

 俺は慌てて開発計画の資料をめくる。
「こんなことをしたら、港周辺は生態系が変わってしまう!!」
「そんなことを大きな声で言ってもらっては困ります。先生には『多少変わったとしてもさほど問題はない』と報告書をあげてもらいたいんですよ。今をときめく海洋学博士の先生が太鼓判を押してくだされば、役所の認可もすぐに降りるってもんです!」

「島の人達はこの計画を聞いて、納得しているんですか!?」

「そりゃもう! このリゾート開発が進めば雇用もできるしインフラも整う。納得するに決まってますよ!」

 俺が資料を机に戻すと 企業の偉い人はそう言って薄汚い笑顔を振りまいた。
「外聞を整えるために形式上の調査はしていただきますが、適当で結構です。この工事にあたって生態系には大きな問題がないって感じのことをそれらしく報告書に書いていただければ結構ですので。」

 俺は、契約書にサインをした。
 このころから例の夢を見るようになったんだ。あの白い女性の夢を。

契約を交わした数日後、俺は実家に電話を入れた。
「あら、拓海? 久しぶりやねぇ、ちゃんと食べとる?」
 電話をすると母ちゃんは毎回おんなじことを言う。
「なぁ、母ちゃん。島のリゾート開発の話って、なんか聞いてる?」
 そう尋ねると、母ちゃんは声を曇らせた。
「あんた、父ちゃんにその話聞かせたらいかんよ? なんやら最近、そのことでたいそう機嫌が悪いんやから。」
 島の女どもは良くも悪くも迎合主義だ。他者とのぶつかり合いを嫌い、なんでも飲み込んで丸く収めようと努める。狭いコミュニティの中で波風を立てずに生きていくための知恵ともいえるが、これでは本当の話など見えてこない。
「今週末、そっちに帰るから。」
 俺は思わずそう口走っていた。
「あんた、帰ってくるん? 誰ぞ、ええ娘さんでも連れてくるんか?」
 途端に弾むような声になる母ちゃんを俺は慌てて制する。
「そんなんじゃないから。どうせ一日しか居られないから、誰にも知らせなくていいよ!」
 俺は慌てて電話を切った。
あの島へ帰る。その事実がズシンと胸にのしかかる。

 その日の夜見た夢は少しいつもと趣が違っていた。
薄暗い部屋の中で俺はシーグラスのペンダントを手に持って眺めている。
シーグラスの中にはいつもの白い世界が映し出されている。
音と匂いのない世界。
映像だけの世界。
木々の緑も入道雲の存在感も依然として季節が夏であることを伝えている。
太陽光は眩しく農道を照らし、そこに立つ女性をうすぼんやりとにじませる。

「きみは誰なんだ?」

 俺はシーグラスに向かって話しかける。
彼女の顔が見たくてシーグラスの角度を変えたりのぞき込んでみたり試行錯誤を繰り返すが、結局その日も彼女の顔を見ることはなく目が覚めた。

 Dバッグに一日分の着替えとペンダントを押し込み、俺は12年ぶりに故郷を目指した。
 新幹線から降りて在来線に乗り換える。無機質なコンクリートジャングルを抜けると、見降ろしてくるような建築物が急に減って視界が広がる。
 やがて田園地帯に入ると、まだ若い緑の稲が視界を覆いつくす。たなびく緑が色を変え、風の通り道を指し示す。サァッと草のこすれる音が聞こえた気がして、俺は目を閉じる。

 川を越え長いトンネルを一つ抜けると、突然窓の外に海が広がった。青い海はキラキラと太陽光を跳ね返してきらめいている。
 同じ地球上の一つの海なのに、国が違えば海も違って見える。今見ている海は確かに日本の海、俺の故郷の海だ。
 終点で列車を折り、フェリー乗り場へと移動する。
昔は小さな船着き場だったのに、この12年の間にここもずいぶんと様相が変わった。板張りの発着場はコンクリートで覆われ、雨の日にぬかるみに足をとられて泥だらけになる心配もなさそうだった。

「あれ、拓海やないか?」
 小型フェリーを運航していた爺さんに声をかけられて、俺は反射的に会釈をする。

「お久しぶりです」

「おお、しばらく見ん間に立派になって! 何やら偉い先生になったんやろ? 大したもんやわ!」
 よく見れば、いつも俺たちが学校に通うモーターボートを出してくれていた三溝のおっちゃんだった。
「昔は漁業の傍らで船を出しとったがよ、まぁわしも歳やで、今はこの渡しの仕事一本にしたんだわ」
 おっちゃんはそう言って昔と同じ、しわくちゃの笑顔を見せてくれた。

 島に降りるとすでに日は陰り始めていた。
船着き場から俺の家までは徒歩20分。いつも夢に見るあの白い道を上がったところにある。
 夢の女性に会えるのではないかという期待と女性が凪だったらという不安が拮抗する。勢いで帰ってきたものの、凪と直接対面する心の準備はできていない。
 ここにきて弱気になった俺は、白い道を迂回するために一旦浜へ降りた。

 太陽が西の海に溶けていくと、その熱を吸い取るかのように海と空がオレンジ色に染まる。
1000℃の鉄球が外側から冷えていくように、太陽の周りは白・黄色・橙・そして藍色へと見事なグラデーションを織りなす。
 スカイブルーの空はみるみる深みを増す。それに伴い海も暗く塗りなおされ、やがて浜に夜が来る。

 堤防道路へと続く石段を振り仰いだ時、先を歩く人物を見て俺の足は固まった。夕日の残滓が照らしたのは、2歳くらいの女の子を抱いた征吾とその後ろを登っていくすっかり大人になった凪の姿だった。

「そうか。やっぱり……」
 自分を納得させようと呟いてみるが、どうにも自分の声が耳をするりと通り抜けてしまって実感を伴わない。まるでいつもの夢の続きを見ているような心もとなさ。俺は波に漂うクラゲのように力なくその場に佇んでいた。

 きしむ体を無理やり動かし家に着いた頃には、とっぷり日も暮れて、あたりは真っ暗になっていた。
「あんた、どこにいっとったね? 三溝さんの最終便が着いても帰ってこんで、心配しとったが!」
12年ぶりの帰宅、第一声は母ちゃんの小言だった。

 食卓には俺の好物が並べられている。
「疲れたやろ、まぁ座れや」
 すでに酒の入った父ちゃんは晩酌の相手ができたとばかりに俺にグラスを向けた。
嫌なことは飲んで忘れるに限る。俺は進んで親父の酌を受けた。

 酒が入れば本音が漏れる。
「なんか最近、リゾート開発の話が挙がってるらしいね?」
 俺の切り出した話に、父ちゃんは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「あんなふざけた話はねぇ!」
 父ちゃんは突然怒り出し、母ちゃんはハラハラした様子で俺に『それ以上言うな』と目で訴えてくる。
「あんなもん作ったら、この近海じゃ魚は取れんようになる。そうなりゃ、島の暮らしはめちゃくちゃにされちまう!」
「島の人達はこの話に納得してないってこと?」
「ああ……じゃがこの島の漁師はみんな年寄りばかりじゃ。若いもんは仕事がないからとみんな島から出てっちまう。そうなりゃいずれ、この島には誰もおらんようになる。だったら人を呼べる手立てを今から考えた方がええっちゅう奴らもおらんことはない。」
「反対派と賛成派がいるってことか。」
「ええか拓海、覚えとけ。この海は人間のもんじゃねぇ。神様のもんを人間がお借りして住まわせてもろうとるんじゃ。人の勝手で都合よくつくりかえたりしていいようなもんじゃねぇ。海は海のあるがまま、自然のままにあるべきじゃ。あんまり勝手をすれば、いずれ罰が当たるでよぉ。」
 酔った父ちゃんはそう本音をこぼした。
「海は海のあるがまま、自然のままにあるべき……」
 俺は父ちゃんの言葉をそっとなぞった。

 その晩、俺は布団の中で考えた。
 リゾート誘致の賛成派と反対派はどのくらいの比率なんだろう。凪は賛成派なのか? それとも反対派か? この島に住む若者なら賛成派なのかもしれないな。あんな小さい子供を抱えてこの島に住むというのなら、リゾート開発が進んで島で仕事ができるほうがありがたいだろう。
 とりとめもなくそんなことを考えていると、酒の助けもあってだんだん瞼が重くなってきた。
 ザザーン、ザザーンと波の音が規則正しく聞こえてくる。
「海は海のあるがまま、自然のままにあるべき……か。」
 子守歌のような優しい波の調べを聞きながら、いつしか俺は意識を手放した。

 その日俺は再び例の夢を見た。
俺はシーグラスを手に持っている。シーグラスの中ではいつものように女性が立っている。
「なぁ、凪なのか? お前はどうしたいんだ?」
 俺はシーグラスに向かって話しかける。
「島を発展させたいのか? それともこのまま残したいのか? 島から出たいのか? 残りたいのか? お前は今どんな顔で何を考えているんだ?」
 無意識のうちに俺の声はどんどん荒ぶる。
「なぁ!! 見えないんだよ、お前の顔が!! こっち向けよ!!」
 俺はペンダントを力任せに足元に打ち付けた。

 荒い息を弾ませて俺は目を覚ました。
波の音に交じってサラサラと雨の音が聞こえてくる。どうやら外では小雨が降っているようだ。
 持ってきたDバックを開けば、カバンの中でペンダントは粉々に割れていた。

「なんねあんた、せわしない。もう帰るんけ?」
「近いうちまた来るから。」
 その日の午前中、俺は文句を言う母ちゃんをなだめながら船に飛び乗り、逃げるようにして東京に戻ると一気に報告書を書き上げた。

 二か月後、俺の報告書を受けてリゾート開発の話は白紙に戻された。
「こんなの契約違反でしょう! 我々は『問題ない』という内容で報告書を上げてくれと頼んだはずだ!」
「環境に多大なる影響があるのに虚偽の報告をしろというあなたたちの方に問題があると思いますけどね。」
 そう反論して企業のお偉いさんの逆鱗に触れた俺は、契約違反の汚名を着せられて勤めていた研究所を首になった。
「あんた、今さらこんな島に戻ってきたって仕事なんかなかろうが?」
失職して帰ってきた息子に呆れながらも、母ちゃんは少し嬉しそうだった。

 俺が島に戻ったことは狭い島の中に一瞬で広がり、すぐに征吾が顔を出した。
「おお、拓海。久しぶりやなぁ! お前、いくら忙しくたって盆と正月くらい帰ってこいや。この薄情者が!」
 征吾の距離感はブランクを感じさせない。だが海で鍛えた征吾の体は12年前より一回り大きくなってギュッと引き締まり、日焼けした肌からは海の男の貫禄がにじみ出ていた。

 征吾は俺を海へと誘った。
「凪がお前のことを忘れたらかっさらってやろうと思っとったのに、いまさら帰ってくるなんて反則やろ?」
「なんのこと?」
 言葉の意味が分からず聞き返すと、征吾は俺の胸ぐらをつかんだ。
「お前が凪のことを放ったらかしにしとったこの12年、俺はずっと凪に振られ続けてきたんやぞ?」
「は? どういうことだよ?」
「お前のせいで凪の中には俺の入り込む隙間がなかったっちゅうことや!」
「お前、凪と結婚したんじゃないのか?」
「アホか! 結婚なんかしとったら、真っ先にお前んとこへ電話して自慢しとるわ!」
「だって6月頃に小さい女の子を連れて浜を一緒に歩いてただろ?」
「はぁ、6月? あんなもん、三溝のじいさんの孫を預かって遊ばせとっただけじゃ!」
 征吾は俺の胸ぐらをつかんだままグイっと引き上げ俺を立ち上がらせた。
「くだらん勘違いしとらんと、凪と話してこい! この時間ならまだ市場に居るはずや!」
 乱暴に背中を押されて、俺は堤防道路を駆けだした。

 初めはよろけながら、次第に自分の意思で足を踏み出す。
凪は俺のことを忘れていなかった。凪は征吾と結婚していなかった。
 夏の7時はまだ太陽の勢いが衰えていない。じりじりと照り付けられて汗が滴る。西から照り付ける太陽の光で足元の影が進行方向に長く伸びる。俺は自分の影を飛び越えんばかりにストライドを開き、市場を目指した。

 目的地に着くとちょうど仕事を終えた人たちが出てきていた。上がった息を整えつつ、俺は物陰から通用口をのぞき込む。
「いた!」
 トートバックを肩にかけた凪が目に入った瞬間、心臓がバクンと跳ねる。

 薄い水色のワンピースを着た凪は俺を見つけると一瞬固まって、やがてぎこちなく微笑んだ。
「拓海? あの……久しぶり、です。」
 凪が目の前にいるという事実は俺を激しく動揺させた。
この12年間会いたいと願った。もらったペンダントを見ては思い出していた。
しかし、いざ本人を目の前にして俺は言葉を失った。

 一体何を話せばいいのだろう? 凪の好きなものも凪の興味を引くことも何も知らない自分は、凪を幻滅させてしまうのではないか? という嵐のような臆病風に吞まれる。

「私、朝倉凪です。……覚えてますか?」
 まるで初対面かのように自己紹介してくる凪に、俺は不覚にも泣きそうになる。
覚えているに決まってる。忘れたことなど一度もないんだから。

言葉の代わりに俺は凪の手をとった。

 凪はそこから一言もしゃべらなかった。だが凪は俺の手を振り払いもしなかった。俺たちは手をつないだまま黙って市場を後にした。
 凪の手は少しガサガサとしていた。市場で働く女性たちは海水を触るので手が荒れる。ランドセルを背負っていた頃のあの小さな手とは、もうすっかり違っていた。

 しっかりと凪の手を握ったまま、俺たちは堤防道路をひたすら歩いた。2時間も歩けば一周してしまうような小さな島は、どこを歩いていても思い出が飛び出してくる。
「よく、あの岩場から飛び込んだよね」
「うん」
「あの浅瀬でウミウシを探したよね」
「うん」
 俺が確認すると、凪は静かに受け止めてくれる。
思い出のかけらを拾い集めながら、俺はゆっくりと凪の手を引いて歩き続けた。

 風が凪いだ。
海風が陸風と交代する。

 俺は凪と一緒に堤防を登った。
無風の海はただ静かにそこにあった。
真夏の太陽は横に大きく広がり、水平線を茜色に彩る。俺たちはどちらからともなくコンクリートの堤防に腰かけ足を投げ出した。

「海は海のあるがまま、自然のままにあるべきだと思ったんだ。」
海に視線を合わせたまま、俺は凪にそう告げた。

「リゾート開発の話を俺はこの手で白紙に戻した。長い目で見たら、俺のしたことがこの島の未来を潰すことになるのかもしれない。でも俺は、この島の自然をそのまま残したいと思ったんだ。」
 ずっと短い返事しかしなかった凪が、ここにきてようやく口を開いた。
「拓海は東京で偉い先生になって、この島のことなんか忘れてしまったんやと思ってた。」
「忘れるはずない。この夕日が俺の原風景なんだから。」
「でも島を出てから12年、一度も帰ってこんかったやろ?」
「学生の頃は金がなかった、社会人になってからは暇がなかった。そうしているうちに俺だけ取り残されているような気がして、怖くて帰れなくなった。」
「取り残される? おじさんもおばさんもこの島におるのに?」
「俺とこの島を結んでいるのは両親じゃなくて凪なんだよ。」
「私?」
「そう。凪との思い出を護るために、俺はリゾート開発の話を阻止したんだ。」
「嘘……だって拓海は新聞やテレビに出るくらい有名な偉い先生になったんでしょ?」
「凪と過ごした時間の延長に今の俺はいるんだ。一緒にウミウシを探したあの頃と、俺は何も変わっていない。変わったとしたらそれは征吾や凪の方だよ。」
「島の毎日はおんなじことの繰り返しやから。うちらはこの12年間なんも変わっとらんよ。」
寂しそうにうつむく凪に、俺は違う角度から切り込んだ。
「ねぇ、なんで凪は征吾を振ったの?」
「なんでって、征吾はお兄ちゃんみたいなもんやし。」
「俺は?」
「拓海は……手の届かない憧れの人、かな?」
「俺、研究馬鹿だから人と関わるの苦手だし、征吾みたいに気の利いたこと言えないし。凪の言う憧れ要素が見つからないんだけど。」
「そんなことない。征吾は人の気持ちなんてお構いなしやろ?『外で本なんか読んでないで泳ごうぜ!』って自分のやりたいことを押し付けてくる征吾を拓海はいつも止めてくれた。」
「そんなことで?」
「私は嬉しかったよ。『やりたいことをやってていいんだよ、そのままの私でいいんだよ』って拓海に認めてもらえる気がしてた。だから私、拓海の言っていた『海は海のあるがまま、自然のままにあるべきだと思った。』っていうのは絶対に正しいと思う。」
 俺はまっすぐ凪を見た。

 月が海に映ってキラキラと白い光を放つ。
光の中から夢に出てくるあの女性が浮かびあがり、隣に座っている凪と重なってくっきりと実体化した。
顔を近づけ、その表情を確かめる。凪は少し照れながらも柔らかく微笑んでいた。
「ああ。俺はずっと君のその顔が見たかったんだ。」
そう呟いて、俺は二度と離さないよう凪の手をしっかりと握った。

 陸風が海へと流れ始めた。
月明かりの下、俺たちは互いの体温を感じながら囁くように打ち寄せる波音を聞いていた。



―――「夕凪」仁科佐和子さまより