貝殻の中の声

 アキがすべての光を失ったのは、病気のせいだった。病気になる前は、何の問題もなかった視力が徐々に悪化した。そして、かろうじて残っていた色彩が不意に滲み、収縮し、やがて全体が深い、均一な黒に変わった。

 アキは永遠の暗闇の中に引き摺り込まれた。音と匂いだけに包まれて、身体から、時間と空間までもが剥奪されたように感じた。アキの意識は、暗闇の中に閉じ込められた。アキの脳内では、感覚が視覚で統合されずに、全体をかたどる形がわからなかった。ただ音や匂いや触り心地がそれぞれ別々に孤立しているだけだった。

 海辺の村で暮らしていた青年ロンは、アキをよく理解していた。彼は毎日、アキの手を取って海岸へと連れ出し、波打ち際に彼女を立たせ、海の静かな呼吸を感じさせた。潮の満ち引きで微かに生じる音のうねり、その緩やかな強弱のリズム、波が引くたびに空気に放たれる、塩と藻の混じった匂い。

 ロンは、アキにそれを見せたかった。「見せたかった」のだ。アキの頭の中から、全ての映像が失われないように、海の姿を思い出させ、脳裏にその映像を焼き付けたかった。

 アキは、いつも海に向かって微笑んでいた。潮風に溶け込む海鳥の鳴き声、寄せては返す波の響きが、アキの中に残された映像記憶と共鳴して再生し続けた。

「そろそろ帰ろうか。また、明日、ここに来ようね」 そう告げる彼の声は、彼女にとって、生きる上での道標で、その響きがある限り、彼女の心の中にも光があった。アキは恐れていた。その光がいつか消えてしまうのではないかと。

 時間が経つにつれ、アキの病状は徐々に悪化し、感覚は次第に鈍化していった。耳に届く音は二重、三重に重なり、肌で感じる空気の動きは、感じるのが困難なほど、希薄になりつつあった。

 別れの日が近づいていた。歩くのも辿々しく、彼女の手足は、日に日に力を失い、ついには、歩けなくなった。

 ある日、アキはふと呟いた。

「この先、もしもあなたの顔を思い出せなくても、潮の香りだけは忘れないわ」

 ロンは、なんと答えていいのかわからなかった。ただ静かに彼女の手を握りしめ、記憶の中に、自分の存在を永遠に刻もうと、彼女の手のひらに自分の名前をなぞった。アキは目を閉じ、無言でその感覚を記憶しようとしているようだった。彼の手の質感、その温かさ、そのわずかな振動。そのすべてが彼女の中で記憶へと変わって行った。

 その夜、ロンはひとり浜辺を歩いた。波打ち際に打ち上げられた貝殻の一つに目を留め、ふと、それを手に取った。片手に収まるほどの巻貝に口を当て、ロンはアキの名前を何度も何度も繰り返した。

 その貝殻をアキの手に渡したとき、彼は耳元でそっと囁いた。

「アキ、これは僕の声だよ。僕のこと、僕の声を覚えていて」

 アキはその貝を握りしめ、耳に当てた。ロンの声が貝殻の曲線に沿って微かに震えた。潮の音が、彼の声と共鳴し、波音とともにアキの名前をささやいた。二重、三重に聞こえる声も心地よいエコーに聞こえた。

 彼女は旅立つ時、その貝殻を手の中に強く握りしめ、涙を流した。耳に貝殻を当てると、アキは穏やかな微笑を浮かべ、そのまま静かに息を引き取った。貝殻は彼女の手の中に収まったままだった。



―――「貝殻の中の声」 氷堂出雲さまより