月と鏡と悪魔

深夜12時、それは鏡の中にあらわれる。

「こんばんは、お嬢さん」

燕尾服によく似た奇妙な格好をした男が鏡の前にしゃがみこむ女に挨拶をした。

被っているシルクハットを脱いで恭しく頭を下げる。

「お嬢さんっていう、年齢でもないわファントム、私は今年で33よ」

長い前髪で顔を隠した女性はそう言って鏡の中の男に応えた。

「女性はいつまでたってもお嬢さんですよ、今日もまぁずいぶんと荒れていらっしゃる」

「薬をのんだんだけどね、それから何もできないの、部屋が汚くてごめんね」

女性の周りにはゴミや服が散乱しており、床が見えない。クローゼットは開け放たれ、布団は乱れたまま、部屋は整えるという言葉からは程遠かった。読みかけの本が床にホコリをかぶっている。カーテンは昼も夜も閉ざされたままだ。

そんな中で部屋の中央に陣取っている大きな鏡は異様な光を放っていた。

「この鏡のなかから手を伸ばし、君の頭を撫でてあげたいよ、でもどうせ今日も契約してくれないんだろ」

鏡の中の男は首をかしげつつ、呆れたように言い放つ。

「ええ、私は貴方とは契約しないわ、だってファントムとはお友達だから、貴方の友達でいたいから」

「まったく……。困った子だ。契約さえしてくれたら、地位も名誉もお金だってなんだって手に入れられるのに」

「貴方を愛しているの、だから、これだけは譲れない。それより、今日はどうだったの? 貴方のことを聞かせて」

女性は鏡にそっと手をついた。鏡の中の男性も手袋を外し女性の手に自身の手を重ねる。

「仕方ないなお嬢さん……なら、とある契約者の話をしましょうか……」

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「……うええん、悲しい、最後にファントムがいてくれてその人も幸せだったと思うよ」

女性は瞳からあふれ出る涙を拭いながら言った。

「私は悪魔ですよ、死ぬ間際に地獄の入り口に立つ人間の顔ときたら……心躍るものがありますが……とても幸せそうにはみえませんでしたね」

「そうなのか……でもその人に悔いはないと思う」

「そうでしょう? 貴方も契約しません?」

「嫌だね、私は毎日こうやってファントムと話すだけで楽しいんだもん」

夜も深けて時計の針は夜中の3時を指していた。

「話すぎましたね、朝が来る……。ではまた明日、お嬢さん」

「うん、また明日、ファントム」

光輝いていた鏡は三度揺らいだ後、普通の鏡に戻った。

「明日まで生きなきゃな……」

女性は床のゴミを蹴散らしながら、床に落ちていた掛け布団を拾うとベットに潜り込んだ。

朝、女性は目を覚ました。閉め切ったカーテンから一筋の光が漏れている。

「のどが渇いたな」

女性は台所へ向かうと、シンクの中に雑に置かれた食器のなかから、マグカップを選びすすぐと水道水でのどを潤した。

「ファントムのために生きたいけど、もう、生きる気力がないや……」

女性は無職で孤独だった。無理に社会に適応しようとして、身体と精神を壊してからは部屋に引きこもる日々を送っていた。

なぜ、食べていけるのかというと、女性の両親が遺した遺産が多少残っていたからだ。

「今日はなにしようかな、カーテン開けれるかな」

季節は今は夏だ、夏の陽射しの眩しさは女性にとって怖かった。

女性は昔から沢山のことを怖がった。人間関係、知らない場所、病気や怪我、怖いと思うたびに持っていた手鏡に写された自分の顔を見て、怯えた顔に笑顔を貼り付け人生に向き合ってきた。

そんな時に鏡の中にファントムが現れたのだ。

女性は自分のことを悪魔だと言う鏡の中の男性にファントムという、あだ名をつけた。

ファントムとは「オペラ座の怪人」に出てくる、仮面をつけた異形の天才作曲家であり演奏家だ。主人公であるクリスティーヌの才能を導き出し、音楽の道へと誘う師でもある。

鏡の中の悪魔と名乗る男性も仮面で顔を半分隠しており、風貌がよく似ていた。

「ファントム……さて、部屋を片付けよう」

女性は薬を飲むと一ヶ月近く開けていなかったカーテンを開けた。眩しい光で目が眩む。

ぼーと、陽に当たると、ベランダに黒い塊が転がっているのが見えた。

よく見ると、ところどころ赤いシミのようなものがついている。

「……烏がしんでる……」

女性は恐る恐る窓を開けると烏を突いてみた。翼がバサリと動き、胸が上下している。

「まだ……息がある」

女性は部屋の中から比較的清潔で袖の通してない服を拾うと、烏を包みこんで部屋の中に持ち込んだ。

「……先ずは傷口を洗わないと」

烏にはノミやアリがたかっていた。
お風呂場に持っていき、水道水でそれらを粗方綺麗にすると、石鹸を泡立て、傷口に触れないように丁寧に烏の身体を洗い流した。

処置が終ると、汚れた服をゴミ箱に放り、また、新しい服で烏を包みこんだ。

綺麗になった烏は健康的な体つきをしていた。烏は目を細めこちらを一瞥したのち嘴で指を突いてくる。

「お腹が減ってるの? ちょっとまってね」

女性は布団に烏をそっと寝かせるとキッチンへと向かった。冷蔵庫にはリンゴとナシが二つずつ入っている。

リンゴを手に取ると皮を剥くのも忘れ、みじん切りにしていく、途中、摘みながら出来上がったそれは見た目は悪いが、烏が食べるには問題なかった。

「はい、どうぞ」

女性は横たわる烏の嘴にスプーンを使いリンゴのみじん切りを少しずつ流し込んだ。

烏は食欲旺盛にそれを平らげると、力尽きたのか寝てしまった。

「……良かった、大丈夫そうだね、窓ガラスに激突したのかな?」

女性は烏が眠る布団を中心に物を少しずつ片付けることにした。小バエが飛ぶ不衛生な部屋の環境は烏の傷口に障るとおもったからだ。

窓を全開にし、エアコンもガンガンつけて換気をする。燃えるゴミをゴミ袋にまとめると、大量の缶やペットボトルをすすぎ、潰してゴミ袋に纏めておく。

数時間それを続けていたら、外は夕方になっていた。

「……一人だと片付けは進まないのに、何かがいるとここまで違うのか、ちょっと休憩しようかな」

女性は冷蔵庫から林檎を取り出し、剥かずにそのまま齧った。

そして、粗方片付いた部屋で自身の姿を鏡で見た。

ボサボサの髪、荒れた唇、眼鏡の奥の瞳は濁り眼脂がたまっている。

「私もシャワー浴びようかな」

女性は1週間ぶりに服と下着を脱ぎ捨てると洗濯機の中に放り、浴室のドアをあけた。

女性はシャワーから浴びるとシャツを適当に引っかけ烏と共に眠りについた。

いつものように、深夜12時ファントムとの約束の時間に目覚めると烏と一瞬に鏡の前で待機する。

鏡が三度揺らぎ、輝きを放った後、ファントムが現れた。

「こんばんは、お嬢さん」

「こんばんは、ファントム……」

「おや? 小さな魂が一つ増えてますね、その烏、どうしたんです? 」

ファントムはいつものように女性に恭しく挨拶をした後問いかけた。

「窓の外に落ちてたの、怪我をしてるみたいだったから、綺麗に洗って林檎を食べさせたわ」

「そうなんですね、よく、見せて貰っても? 」

「ええ、いいわよ」

女性はそういうと鏡の中央に烏を差し出した。

「烏と悪魔の相性は良いんですよ」

ファントムはそういうと鏡の中から手を出し、烏を鏡の中に引きずり込んだ。

「……え、ちょっと、ねえ、大丈夫なの?」

「大丈夫、大丈夫、しかし、酷い怪我ですね、今夜が峠かもしれません」

「……そんな…元気そうなのに」

鏡の中で烏を抱えながら、ファントムはこう続けました。

「ちょうど、使い魔が欲しかったんですよ、私の力を分けてあげましょう」

そういうとファントムは烏の首に手を当ててドロリとした黒い靄のようなものを烏の嘴に放り込んだ。烏の瞳が漆黒から血のような赤色に変化する。

鏡の中の烏は勢いよく立ち上がるとファントムの腕に止まった。

「凄い、元気になった! 」

ファントムは鏡の中から烏を解放した。鏡の中から飛び出た烏は部屋を自由自在に飛び回る。

「ずいぶんとまぁ、狭い部屋に住んでるんですね、少し片付けましたね」

鏡の中のファントムはそういうと私と目線を合わせた。ファントムの瞳の色は烏と同じ鮮血のような赤色た。

「もしかして、烏と同じ景色を見れるとか」

「ええ、そうですよ、使い魔とは視界を共有できるので、これで正面からだけではなく、貴方の後ろ姿も見れますね。……初めて見ましたが、下着ぐらいはいたらどうです? 」

そういうと烏は嘴を使い女性のシャツをめくった。

「この、エロ烏!」

女性はシャツを慌てて押さえると、鏡に向き合う。

「これで、夜中以外でも貴方の行動をみることができます」

「え? 私、監視されるってこと? 」

「監視じゃなくって、見守りです、ひとりじゃ何もできないでしょ、お嬢さん、だいぶ痩せましたね、もしかして、自殺願望でもあるんですか? 」

「一人で生きるのは辛いの」

「私がいるのに……契約さえしてくれれば貴方を抱きしめて死ぬまでずっと一緒にいてあげますよ」

「貴方の契約の条件は肉体と魂をあげることよね?」

「そうですね」

「そして、貴方はそれを食べるんでしょ」

「悪魔ですから」

「私は醜い人間だからわかるの、誰も食料を本気で愛する人なんていないわ、貴方にとっての牛や豚に成り下がるぐらいなら、死んだほうがまし、幽霊になって貴方の隣へいくわ」

「……お嬢さんは本当に困った人ですね、悪魔に心は存在しませんよ」

「人間にだってそんなの存在するか分からないじゃない」

女性は鏡をダンッと叩いた。

「私は本気なの」

「……ここまで愚かな人間もめずらしい、お嬢さん、今日はもうお眠りなさい。朝が来る。日中は烏の目から貴方を覗いてますよ、せいぜい足掻いてみてください」

「言われなくても、足掻くわよ、おやすみ、ファントム」

女性は鏡の中にいるファントムの頬に手を伸ばしそっと口づけた。もちろん、触れられない、ひんやりとした鏡の冷たさに女性は目が覚める心地がした。

「おやすみ、お嬢さん、良い夢を」

鏡は三度揺らいだ後、普通の鏡に戻った。

時計の針は何時も通り夜中の3時を指していた。

いつもと違うのは元気になった烏が暗闇で光る赤い目を向けてこちらをみていることだ。

女性は薄く目を開けた。

カーテンが陽の光に照らされゆらゆらと揺らいでいる。

今日は何月何日かもう忘れてしまったが、開け放たれた窓から心地よい風が吹いてきた。夏の終わり、秋の気配がした。

───カァー、カァー

女性の枕元に赤い目をした烏がいた。女性はぼやけた頭で昨日のファントムとのやりとりを思いだす。

「おはよう、ファントムちゃんとみてる? 」

女性は烏の頭を指でなでると身支度を始めた。

「今日は買い出しに行こうと思うのついてきてくれる? 」

──カァー

女性は鏡を見て支度をした。烏に隠れるように服を着ると、サイフを鞄にいれ外に出る。

烏は女性の近くに止まると勢いよく外に出た。どうやら飛んで遠巻きに見張ってくれるらしい。

女性は手足が震え、目がくらんだがファントムが見ていてくれると思うと頑張れた。

買い物が終わり、1週間分の食料を抱えた後家に戻る。玄関に入るタイミングで烏が戻り部屋に一緒に入った。

「ふぅ、緊張した」

──カァー、ガン バリ、カァー、マシタ

「え! 喋った!」

烏は女性の頭にのりながらカタコトで言葉を発した。

──ガン バッター、カァー

「……ありがとう、ファントム」

女性は烏の頭を撫でた。

昼間は烏のファントムに見守られ、夜は鏡でファントムと話す生活を続けていくうちに、女性の身の回りは目に見えて、整えられていった。

そんなある日の夜中の12時、いつものように鏡が揺らぎファントムが現れた。女性は手に団子を沢山もっている。

「どうしたんです? お菓子なんかもって、それにここは」

「そうここベランダなの、今日はストロベリームーンって言ってね月が赤くなるんだって、それから月蝕がおきるの一緒に見ようとおもって」

女性はベランダに鏡を寝かせて空を写した。

鏡の中に赤い月が現れる。

「ファントム、どうしたの黙りこくって」

「お嬢さんも鏡の中へ来ませんか? 」

「へ? でも、そんなこと出来るの? 」

「本来なら契約しないと無理ですが、月蝕は悪魔の力がつよまるので、こちら側に誘いやすいんです。手をこちらへ」

鏡の中からファントムの大きな手が現れる。女性の頭なんてすっぽり覆ってしまいそうな大きな手だ。

「帰してくれるよね? 」

「もちろん」

女性はファントムの手を取ると鏡の中へ飛び込んだ。

「目を開けて? 」

ファントムがそういうと女性は恐る恐る目を開けるとそこは鏡の宮殿だった。

アチラコチラに色んな形の鏡の断面がレンガのように壁に積み上がっている、部屋の物は全て鏡で出来ており、窓の外にある植物さえも鏡だ。

天井から降りている心臓の形をした鏡のオブジェがシャンデリアの役割を果たしていた。三角の細かい面で構成されたそれはキラキラと部屋中の光を拾う。

女性の鏡から夜空に浮かぶストロベリームーンが鏡の宮殿に溶け込み幾重にも小さな鏡を隔て屈折し、心臓のオブジェにも当たり、レースの糸のような模様となって天井から降り注いでいた。

「凄い、桜の花びらが舞って光ってるみたい」

女性はファントムに抱えられている照れくささも忘れそう言った。

「月には黄金に輝く木があって、その木は桜のように輝きを放つらしい、すこし、こちらへかけらが漏れ出しているのかもしれませんね」

「……それよりファントム、はなしてくれない? というかファントムって凄い大きいんだね」

女性は鏡の中のファントムしか知らないため、全体像を見るのは初めてだったが、彼の身長は2メートルを軽々と越していて、まるで、大人が子供を抱きかかえているようだった。

「どうして? ようやく触れることができたんだ、離しませんよ……月が綺麗ですね」

「うん、月が綺麗だね、お団子置いてきちゃった、ファントムはお腹すかない?」

「すごくすいてます」

「だったら、お団子……」

「違うでしょ」

ファントムの目が赤色に輝く、月の薄明かりに照らされてキラキラした鏡がザラメみたいに細かく月明かりを編んでいく、光の揺り籠の中にいるみたいだと女性はおもった。

「私は、月が綺麗ですねと言った、それに貴方も綺麗だと答えた」

「……うん」

「愛の告白のようではありませんか? 」

「ファントム……私……」

月に影がかかっていく、月蝕が始まった。鏡の中も闇が現れ光の揺り籠を飲み込んでいく。

「小さい時からお嬢さんは何回も私に笑いかけてくれましたね、これはそのお礼だ」

ファントムは仮面を脱ぎ捨てると、女性の唇へ自身の唇を重ねた。

「……ああ、思った通りだ、とてもおいしい」

「……ファントム、たべちゃ嫌だよ、食べないで」

女性は震える身体を押さえながら、ファントムの顔を見た。ナイフを連想させるような冷たい鋭利な瞳、薄く弧を描く唇、人間離れした人形のような顔立ち、白髪の髪に血の通ってないような白い肌、顔の半分は鏡で出来ている。

「……痛っ」

唇に痛みが走る、どうやら彼の唇の半分である鏡で切ってしまったらしい。

「鏡は鋭利ですからね、私の顔の半分は鋭いナイフのように斬れますから。触れたら怪我をさせてしまうのを忘れていました。ごめんなさい。お嬢さん」

「ううん、大丈夫、これくらい」

女性は震える身体でファントムを抱きしめた。

「さて、月蝕がおわりますね、もうそろそろ、戻りましょうか……それともお嬢さん、このまま、ここにいませんか? 」

女性は怪我した唇を舐めた。

「ここにいたら、傷だらけになっちゃうわ、まさか、それでずっと抱えててくれたの?」

「ええ、そうですよ」

「ありがとう、ファントム」

「……お嬢さん、暫く、会うのは辞めましょう」

「え、なんで、楽しかったよ」

女性は震える身体を押さえながら、無理矢理笑顔をつくった。

「なんででもです。必ず会いに行きますからそれまで待っていてください」

ファントムはそういうと鏡の外にそっと女性を押しやった。

女性が元の世界に戻った時には鏡は普通に戻り、月蝕も終わっていた。



それから3年、女性は少しずつ努力をした。自分の出来ないことを出来ないと認め、自立支援などの社会資源に頼り、外に出始めたのだった。

それが仕事に繋がり、工場で働きはじめたのがここ最近で、ようやく仕事に慣れてきた頃合いだった。

収入も入るようになり、貯金が減る心配も無くなった。

あの、ストロベリームーンの日からファントムとは会えていない。ファントムが残してくれた烏も話さなくなり、何の変哲もない普通の烏になってしまった。

籠に閉じ込めておくのもかわいそうなので、ベランダから外に放したが、女性が呼びかけると来てくれるようになった。

今日もベランダで女性の仕事終わりの晩酌に烏は付き合っていた。

スルメを烏にあげながら、お酒の代わりにコーラを飲むのが彼女の日課になっていた。

「ファントムはいつ会いに来てくれるんだろうね」

烏は何も言わない、夢中でスルメを食べている。

「今となっては、全て私の妄想だった気もするの、でも、烏くんは存在してるし、私も元気になってる……」

その時、ピンポーンと玄関のチャイムがなった。

「はーい、何か頼んだかな?? 」

女性が玄関をあけるとそこには身長の高い男性がたっていた。黒髪黒目で人形のように整った顔をしている男性は人なつっこい笑顔を向けたあと、お菓子を女性に差し出した。

「隣に越してきた白石と申します。これ、つまらないものですが」

「えっと、藤井と申します。わざわざすいません。あの、どこかでお会いしたことありますか? 」

玄関に佇む彼はどことなくファントムに似ていた。

「いいえ、初対面ですよ、私の顔に見覚えでもありましたか」

「いえ、知り合いに似ていたもので……親戚か何かかと」

「そうなんですね、実は田舎から越してきたばかりで知り合いもいないんですよ、こんな綺麗なお姉さんが隣で良かったな」

「綺麗だなんて、そんな……。田舎からこしてきたんですね、あ、ちょっと待ってね」

女性は冷蔵庫から林檎を2個取り出すと白石と名乗る男性に差し出した。

「これどうぞ、時期だから甘くておいしいよ」

「わぁ、林檎食べるの久しぶりだな、ありがとうございます、改めてよろしくお願いします」

「うん、こちらこそ、よろしくね、それじゃまた」

「はい、それじゃ、また」

女性はパタリと玄関のドアを閉めた。

晩酌に戻るとそこにいつもいるはずの烏の姿は消えていた。

「私には、ファントムにみえた……。」

再びベランダでコーラを飲んでいると次は横から声がかかる。

「こんばんは、さっきぶりですね、藤井さんもベランダにでてたなんて、今日はストロベリームーンらしいんですよ」

「あ、なんか、ベランダで晩酌するのに慣れちゃって、本当に? 気づかなかった」

「この烏、藤井さんが飼ってるの? 」

どうやら烏は隣の部屋の白石のベランダに行っていたようだ。

「いや、飼ってるわけじゃないけど懐かれちゃって」

「僕、烏撫でたの初めてかも、可愛いね」

「えへへ、その子、怪我をしてるときに助けたから人なつっこいの」

「……そうなんだ、あのさ」

「なに?」

「今日会ったばかりであれだけど、時々こうやって一緒に呑みませんか?」

「え……まぁ、いいけど……」

「嬉しいな、今日は良いことばかりだ」

藤井は白石の顔をみた、目がほんのり赤く染まっている。ストロベリームーンのせいだなと思うことにして、ファントムのことを思い出す。しかし、口にしてはいけない気がして、かわりに「月が綺麗だね」と白石に微笑んだ。




「月と鏡と悪魔」牡丹さま