白昼夢は醒めるもの

 きらきら輝く夢を、捨てきることができずにいる。
 ボタンを押す一連の動作は体に染みついている。いつもの音楽、変わらないステージは、変われと責めてくる周りの声からの逃げ場になっていた。
 鈴虫の声がイヤホンを貫通して流れてくる。少ないお小遣いでは有線のものしか買うことができなかった。ノイズキャンセリングなんてついていない。同期の塾生が持っているものを、僕は持っていない。
 いつものタイミングで同じボタンを押すと、ステージクリアの音が鳴る。報酬も同じものだ。同じことをして同じものを得ると、変わらないままでいいと肯定してくれるような気がして、僕は安堵のため息をつく。
 ふと気配を感じて液晶画面から顔を上げると、目の前に白い布が現れた。夜風に吹かれてふわふわと動くそれは、ワンピースのようだった。
 白ワンピースは目の前から動こうとしない。確実に僕のことを、認識している。
——不審者。
 不穏な三文字が頭によぎるも、こんな時間にこんな格好をしてうろついている人のことが気になって、僕は恐る恐る顔を上げる。
 目についたのは大きな帽子だった。純白の、つばの広い帽子だ。その下の顔が、見えない。帽子の影に隠れている。
 この人って、もしかして。頭に最悪の想像がよぎる。ファンタジーであってほしかった。
 八尺様。その怪異の話を、インターネットで見たことがある。好きになった相手を殺してしまうと言われている、女性の怪異。確か、鳴き声は。
「ぽ、ぽぽ」
「うわあああっ!」
「なーんてね! じょーだんじょーだん!」
 僕が声を出すと、その人は顔を上げた。街灯の明かりが彼女の顔を照らす。あどけない少女の顔が、そこにはあった。
「びっくりさせてごめんね。あたしは」
「は、八尺様……?」
「あはは、違う違う! よく見て、あたし二メートルもないでしょ?」
 落ち着いて彼女の身長を見てみると、僕より少し低いくらいだった。高校生だろうか。だとしたら、僕と同じだ。はあ、と胸を撫で下ろす。
「ね。怪異じゃないから安心して。隣、座っていい?」
 少女は僕の隣を指差す。断るのもなんだかな、と思い頷くと、彼女はワンピースをふわり揺らしてベンチに座った。イヤホンを外すと、熱のこもっていた耳孔に秋の空気の冷たさが侵入する。
「なんでこんなところでゲームしてるの?」
「それはきみも同じでしょう」
「それもそうだね。じゃあ、あたしから」
 少女はワンピースの裾をつまんで、ひらひらさせる。
「このワンピースを着て、出かけたかったのです」
「……こんな夜中に?」
 屋外時計の短針は、数字の一を指している。
「ふふ。色々事情があって、ね」
 彼女は「それよりもさ」と話題を変える。
「このワンピース、知ってる? あのブランドのものなの」
 白ワンピースの少女は、誇らしげにそのブランド名を口にした。口元はにっこりと、自信で満ちあふれている。僕はその様子を、ただ見つめていた。
「……あれっ、驚かないの? これ、結構高価なものだよ」
「驚きはしないかな。前にママが買い漁ってたから。今は飽きたみたいだけど」
 伝えると、少女の顔からさあっと血の気が引いて、「そ、そう……」と視線をそらされた。
「ごめん。きみにとっては宝物なんだよね」
 まだ視線を合わせてくれない彼女に、声をかける。
「似合ってるよ。帽子もセットのものなのかな? すてきだよ」
 笑みを浮かべて伝えると、彼女はぼそぼそと言う。
「……ありがとう」
 帽子のつばを両手でつかみ、赤くなった顔を隠している。
「ごめんね。僕のことも話そう」
「……ん」
「僕は……ゲームのために来てる、のかな」
 帽子から手を離して、問われる。
「ゲーム? 家でやればいいじゃん」
「いやー、それがね」
 怒りの表情が頭をよぎる。
「……ママに監視されてるんだ。見つかると取り上げられるから、家ではできない」
「ふーん……」
 少女は前を向いたまま、考えているようだった。少し置いて、その小さな口が開く。
「厳しいんだね」
「そうなんだよ。お小遣いも月千円しかもらえてないしさ」
「待って。きみいくつ?」
「十七」
「え、ってことは、高校二年生か三年生? それで月千円って……」
「うん、なかなかだよね。わかってくれる人がいて、嬉しいよ」
 あはは、と相手の顔を見ると、彼女はまたぞっとした顔をしていた。誤魔化すように再び苦笑いを浮かべる。
「ごめん……」
「なんで謝るの。きみは悪くないよ」
「いや。きみの気分を悪くさせたのが、ちょっと嫌だったから」
 伝えると、少女は「やさしいんだね」とつぶやいた。小さな口が弧を描いている。
 そのまま、二人で鈴虫の音を聞いていた。ふと、ベンチから重みが消える。少女が立っていた。
「もう帰らなきゃ。楽しかったよ、ありがとう」
 文字盤を見ると、時刻は一時半に差し掛かろうとしていた。足を踏み出す彼女に、僕も立ち上がって声をかける。
「待って。きみの名前は?」
 振り返ると、白いワンピースがふわりと舞う。
「あたし? 八尺様でいいよ」
「えっ」
「どうせ、ほかの人にもそう間違えられるし。きみのことはきみって呼ぶよ」
 驚いている間に、八尺様は数歩歩く。
「よかったら、またここで話そうよ。じゃあね!」
 ばいばいと手を振り、僕の家と反対の方向に、機嫌よさそうにスキップをしながら帰っていく。遠ざかる白い背中が、夜闇にまぎれていつの間にか消えていた。

 夜もふけた深夜一時、公園のベンチに座って、ゲームをする。そうすると、いつの間にか彼女がやってくる。そんな日が三日ほど続いた。
 僕はゲームの話ばかりしていた。周りに聞いてくれる人がいなかったし、その話をすること自体、受験生としてなんだかタブーのような空気があった。そのため、相槌を打ってくれる八尺様はありがたい存在だった。
 今日も来てくれるかな。期待しながら、一人ゲームをして待つ。
「こんばんは」
 顔を上げると、八尺様が来てくれていた。僕も「こんばんは」と会釈する。
「隣、いい?」
「もちろん」
 ぎっと音が鳴ってベンチが揺れる。イヤホンを外して、なにを話そうかと考える。
「あのさ」
 彼女の方から話を切り出すことは、あまりないことだった。静かに耳を傾ける。
「前に、お母様がブランドものを買い漁ってたこと、お小遣いが月千円なこと、話していたでしょ」
 なぜそんなことを聞くのかと不思議に思ったが、事実だったので頷いた。
「きみの家はお金持ちなの?」
「……」
「答えたくなかったらいいんだけどさ。ちょっと心配なんだ、きみがつらい思いをしていないか」
 口は寂しげに笑っている。今まで一方的に話を押し付けていたことから申し訳ない気持ちもあり、僕は「そうだね」と肯定する。
「うちは代々医者の家系なんだ。僕は実家の個人医院を継ぐことになってる」
「そうなんだ……やっぱり」
「あれ、気づいてた?」
「そりゃね。ゲームに塾に、お金持ち。きみの服も全部ブランドものでしょ。なんとなくわかるよ」
 そんなところからバレていたのか、と僕は目を丸くする。なんでもお見通しのようだ。
 隠していたことを言ってしまうと、この際だから悩みも話してしまおうか、と口が軽くなる。
「でも、Sクラスになれなくて……」
「……塾の話?」
「そう。僕は、頑張ってるのにAクラス止まりなんだ。両親も祖父母もパパと同じ医大に入ってほしくて、そこへ行くにはSクラスじゃないと難しい。合格できなかったら何度でも浪人しろ、って言われてる。
 ……プレッシャーだよね。こんな外出なんて、してる場合じゃないのに」
 はぁ、とため息が出た。八尺様が口を動かす。
「きみの夢は?」
「医者になることだよ」
「そうじゃなくて、本当に、なりたいものは?」
「本当に、なりたいもの……」
 ゆっくりと、その言葉を咀嚼する。彼女なら伝えてもいいだろうか。誰にも悟らせぬよう封印していたものが、口から飛び出る。
「ゲームクリエイター」
 その夢は、僕をわくわくさせるには十分すぎる響きだった。小さいころから、なりたかったもの。
「僕、ゲーム好きだからさ。なれたらいいなって思ってたんだ」
 スリープモードで真っ黒なゲーム画面を見つめる。
 毎日勉強漬けの生活の中で、唯一現実を忘れられる場所。それがゲームだった。お小遣いを貯めて内緒で買った中古のゲーム機で、いろいろな世界を旅した。僕の視野はゲームによって広がり、あの中ではみんなを幸せにできる勇者になれた。
 次第に、そんな世界を作ることのできるクリエイターに、僕もなりたいと思うようになった。僕みたいな誰かを笑顔にできるような、そんな仕事に就きたい、と。
「……なんて、叶わない夢だけどね」
「叶えられるよ」
 耳を疑う。彼女の声は、真剣そのものだった。
「……いや、無理だよ」
「すぐには無理かもしれない。でも、心の中で思うのは自由なんじゃないかな」
 明るい声色でやさしい言葉を送ってくれる。それはこんな深夜にふさわしくないくらいきらきらしていて、そのまぶしさに圧倒されそうになった。
 諦めなくても、いいんだ。
「ありがとう。そうしてみるよ」
 八尺様はにっと笑う。応援してくれる気持ちが嬉しくて、ゲーム機を持つ手に少し力が入る。硬い感触が、確かに存在感を示していた。

 頬が熱い。じんじんと押し寄せる痛みで、ゲームに集中できない。ボタンを押す順番をミスって、いつもは勝てるはずの敵に負けてしまった。
 はぁ、とため息をついて下を向く。早く、あの子に会いたかった。やさしい言葉をかけてくれる彼女と話したら、少し楽になるかもしれない。
 うつむいた視界に横から白いパンプスが入り込んて、僕は顔を上げる。
「大丈夫? 赤く腫れているようだけど……」
 八尺様は、両手の指を絡ませながら僕の左頬を見ている。
「……話、聞いてもらってもいい?」
 彼女は不安そうに頷いて、僕の隣に座った。
 なにか話そうとするも、ことの重大さが邪魔をして、言葉がなかなか出てこない。少し前に視界に映った映像が再生されて、ぽろ、と涙がこぼれる。手でそれをぬぐうと、またあふれてきた。
「どこから、話せばいいのか」
「話せるところだけでいいよ。無理しないで」
 こんなときでも、彼女はやさしい。
 涙が出て、ぬぐって、頬が痛くて、またあふれて。そんなことを繰り返して、言葉の一つも出せない自分に嫌気が差す。情けない。
 八尺様は、僕が落ち着くまで待ってくれていた。無理に言葉をかけない支えがありがたかった。
 深呼吸して、状況を簡潔に説明する。
「ゲームクリエイターになりたいって言ったら、ママに平手打ちされちゃった」
 苦笑いすると、八尺様は目を見開いて「嘘でしょ」と白い手を口に当てた。
「まぁ、当然の結果って感じだよね。ママの言う通りにしなきゃいけないし」
「ねぇ」
 鋭い語気で話を遮られる。普段話を聞いてくれる彼女が、こんなことをするのは珍しい。
「そういうのって、きょーいくぎゃくたいって言うんじゃないの」
 普段耳にしない言葉で形容された。頭は古いゲームのように処理落ちしていて、少しずつしか動かない。
「教育虐待。知らない?」
 首を傾げる八尺様。彼女の口から出た四文字の熟語を認めたくなくて、頭がぐつぐつと沸いてくる。
「そんなことない、ママは僕のためを思って動いてくれているんだ!」
「じゃあ、ぶたれたのもそういうことなの?」
「そうだ」
「だったら、親が子供に手を上げるのは、しつけのためだって言うの?」
 彼女の問いに、僕は口を開きかけ、やめた。一般化されたことで、一気に頭が冷えていく。
 それは確かに虐待と形容されるものだ。よくニュースで報道されている。僕が受けたものも、そうなのだろうか。相手の正論に納得したくない。頭を抱える。
 叱る声も、今持っている頬の痛みも、その言葉で形容されるものであるという社会の物差しを認めたくなかった。
 おもちゃをねだることをやめたらいい子だと喜んでくれた、ママのやさしい声は。テストで満点をとったときだけ頭をなでてくれた、パパの大きな手のひらは。あの二人の笑みも、嘘だったというのか。幸せな思い出が歪んでいく。
「まぁ、そういう環境にいる人って当事者だと思わないらしいね。ごめんね、いきなり今までを否定するようなことを言って」
 八尺様は手を合わせて「ごめんね」と再度謝った。
 二人の間を行き交う言葉がなくなる。夜風が吹いて、八尺様の白いワンピースを揺らす。ふわり浮かんだそれは、彼女の足に沿うように形を変えて落ちる。細い足だ。彼女が瘦せていることに気づく。
 少し時間が経つうちに、混乱していた頭も徐々に落ち着いてきた。彼女の四文字の言葉が僕の状況にふさわしいと認める方向に、少しずつ舵を切っていく。
「全然、わかんなかったよ。でも、そうなのかもしれないね」
 八尺様を見ると、顔を伏せていた。
「……本当は、このことはあたしが言うことじゃない。伝えたのは、今苦しんでいるきみに、言い訳をあげたいと思ったから」
 ゆっくりと上げられた顔が、僕に向けられる。
「そうしたら、全部自分のせいじゃなくて、責任を分散できるでしょ」
「……うん」
「でしょ。……じゃあ、さ」
 身を乗り出して、僕に提案する。
「逃げよう」
「逃げるって、どこに」
「あたしの、お気に入りの場所」
 一体、どこなんだろう。想像もつかない。相手の口元はにっこりと上がっている。
「逃げてもいいんだよ。全部抱えなくたっていい」
 そっと、頬の傷に手をあてがわれる。ひんやりとした甘い体温が伝わってくる。誘うような微笑みが、僕を見つめている。
 もし。もし、八尺様と一緒に、ここから逃げられたなら。受験勉強からも、監視の目からも、将来の運命からも、目を背けられたなら。そうしたら、どれだけ僕は楽になるだろうか。
 途端、周りの人たちの顔がよみがえって、僕は首を横に振った。
「……ごめん。ママもパパも、待ってるから」
 返事を聞いて、彼女の口が小さく動く。
「……残念」
 まるで、期待していたかのような口ぶりだった。
「きみなら気に入ってくれると思ったのに」
 こちらに微笑む顔は、いつものあどけない八尺様だった。
 屋外時計は二時になりかけている。長居しすぎた。僕は「またね」と伝えて白ワンピースの彼女に手を振り、その場をあとにする。
 その後受験勉強が本格化してしまい、それが学生時代に深夜の公園を訪れた最後の機会になった。頬にあてられたあの白い手の冷たさを、忘れることはできなかった。

 僕の視界に、きらきら輝く液晶が映る。
 新型のゲーム機はあの頃よりずっと解像度が高く、わくわくさせてくれる。シリーズ新作のあるステージでは、聞き覚えのある音楽が流れていて、僕は懐かしくなった。
 また、あの公園の古いベンチに座っていた。屋外時計は深夜一時を示し、鈴虫はりぃりぃと合唱している。画面の中のモンスターを目で追いかけながら、もしかしたら、あの子が来てくれないだろうかと期待していた。
 感謝を言いたかったのだ。あのころの僕と話してくれてありがとう、と。あの子と出会えなければ、僕の心はどこかで壊れてしまっていたと思う。
 僕は家が異常であることを自覚し、担任に相談した。すぐに母親を交えた三者面談になり、担任の必死の説得もあって彼女は折れた。それを出発点として、父親や祖父母とも話し、医者になってくれたら大学はどこでもいい、という話になったのだった。父親の母校のワンランク下の医大を卒業して今に至る。
 ただ、再会するには時が経ちすぎたかもしれない。十年という歳月は、人を忘れるにはちょうどいい長さだ。有線イヤホンの外から聞こえてくる音に、彼女の気配がないか耳を澄ませる。
 ふとゲーム機から顔を上げると、白い布が目の前ではためいていた。風が止み、次第に動きを止めたそれはワンピースのようで。
 僕の前に立つその人の顔を見る。不思議とあのころから歳を重ねているようには見えなかった。
 あどけない顔に、白いつば広の帽子。真っ白なワンピースがゆるい秋の風を受けてふわり、動く。
「久しぶりだね。最近来ないものだから心配してたよ」
 八尺様と名乗る少女は、僕の顔を見て微笑む。
「隣、いい?」
 もちろん、と頷くと、彼女はにこっと笑ってベンチに座った。ぎ、と古い木材が音を立てる。僕もイヤホンを外す。
 伝えよう。あのときの感謝を。僕の、すべきことを。
「あのとき、たくさん話してくれてありがとう。あの数日間があったおかげで、僕は医者になれた」
 少女はうんうん、と首を縦に振る。
「だから、今度は僕がきみを助ける番だ。きみにも、笑っていてほしいんだ」
 心からの笑みで伝える。すると、相手は口を小さく開けていた。
「もし、夜中に家を出ちゃうくらい安心できる場所がないのなら、いいところを知ってるよ。みんな優しくていい人たちだ。困っていることがあるなら……」
「そういうの、興味ないから」
 拒絶の冷たい声がした。一気に空気が冷え、僕は「ごめん」と謝ってみるも、それは効力を持たない。彼女は下を向いてしまった。
 数秒ののち、少女はゆらりとベンチから立ち上がり、僕の目の前に立つ。
 白いワンピースが、あのときと同じように風に揺れている。
 少女はおもむろに、両手の指を僕の顎に沿わせた。
 触れた指先から、ぞっとするような冷たさが伝わる。あのころと同じ、低い体温だ。
 指を滑らせ、首を囲うように手のひらを這わす。
「ど……どうしたのかな」
 喉が動いて、僕が声を発していることは相手にも伝わっている。が、彼女の口の端は下がったまま変わらない。
 抵抗はしなかった。大人の男性と少女だ、怪我をさせたら大変だし、話せばわかってくれるはずだ。
 少女の口が、ゆっくりと動く。
「あたしが望んでいるのは——きみだけなの」
 途端、首に圧力が加わる。
「ぐ、うっ……」
 信じられない怪力に、僕は目を剥いた。
 ほどこうとその白い腕をつかむ。
 小枝のように細いのに、びくともしない。
 徐々に息が苦しくなってきた。
 助けを求めようと彼女の顔を見る。
 帽子の影に隠れて真っ黒だ。
「やさしくて、従順で、純粋。あの年で親に反抗しないところも可愛かった。そんなきみと、夜だけじゃなくて、ずっと一緒にいたいと思ったの」
 なにを言っているのか理解できない。
 息が苦しくてそれどころじゃない。
 腕をほどこうとがむしゃらにもがくも、それが意味を成すことはない。
 ゲーム機が音を立てて地面に落ちる。
 その音が遠いことに気づいて、下を見る。
 僕は浮いていた。
 相手の腕の力で、浮いていた。
 さっきまで少女だった人間は、二メートルはありそうな、大女になっている。
「揺さぶっても、あなたは誘いに乗ってくれなかった。やさしいんだね。あんなにつらい立場にいたのに、それを受け入れてしまうなんて」
 少女の声が、徐々に低くなる。
 大人の男性の、低い声に。
 ぽぽぽ、と不気味な笑い声が、鈍く光る歯の間から聞こえてくる。
 一縷の望みを賭けて、誰かいないかと周りを見渡す。
 深夜の公園に人がいるはずがない。
 助けを求めるのは、絶望的だった。
「そういうところ、かわいそうなくらいだいすき」
 うっとりとした声で、愛を伝えられる。
 白いワンピースの、大女。
 八尺、様。
 好きになった相手を、殺してしまうと言われている。
 思えば、あれも、あれも、怪異の噂通りだったと、今更気づく。
「ねぇ、お願い。あたしのものになって」
 首を絞める手が、より一層強く首を圧迫する。
 必死に抵抗していた両手に、力が入らなくなる。
 両腕をつかむので精一杯で、まったく役に立たない。
 ぽ、ぽぽ、と笑い声。
 彼女の口は、にっこりと弧を描いている。
「ずっと、ずーっと一緒。誰もきみを愛してくれなくても、あたしが愛してあげるから」
 苦しい。
 苦しい。
 声を出すことさえままならない。
 僕のことを、ずっと狙っていたのだろう。
 相手が油断するそのときを。
 信頼しきって抵抗しなくなる、そのときを。
 十年間。執念深いその行動に、相手が怪異であることを再度自覚させられる。
 意識が、薄れていく。
 薄ぼやけた視界に、地面に落ちた裏返しのゲーム機が映る。
 どうせ、あのころ持っていた夢も叶わなかったのだ、なら、いっそのこと——
「安心して、きみの幸せはあたしが」
「……悟?」
 知っている声に顔を向けると、人の姿があった。途端に首の圧迫がなくなり、僕は大きく咳き込んだ。
「大丈夫!?」
 地面にうずくまる僕に駆け寄り、肩に手を添えてくれる。タッチングだ。安心させるために行う、看護技術の一つ。看護師の彼女から教えてもらったものだ。
 呼吸が落ち着くと、美穂は僕の目を見て言葉を伝えてくる。
「探したよ。気づいたらいなくて、こんな夜中に公園にいるなんて」
「……ごめん」
「いいよ。気にしてない。ただ心配だっただけ」
 僕の肩をぽんぽんと叩いて、立ち上がる。
「帰ろう?」
 伸ばされた手をとる。ゲーム機も忘れずに持って立つ。ボタンをいじるも、ただスタート画面を表示しているだけで、なにも異常はなかった。
 鈴虫の合唱と砂利を踏む音、葉がざわめく音だけが聞こえる。首を触っても、冷たい感覚はどこにもなく、いつも通り頸動脈が脈打っている。
「あのさ、なにか……悩んでるの?」
 不安そうな声で、美穂が聞く。
「こんな時間に、しかも私の知らないゲーム機まで持ち出して、外で遊んでるなんてさ」
 かつての記憶が一瞬よみがえり、足が止まる。
「お……怒る?」
「怒らないよ」
 振り返り、微笑んでくれる。
 美穂とお付き合いを始めてから、二つのことを約束した。
 お互い強い感情をぶつけることは絶対にしない。その代わり、冷静なときに話し合いをする。
 そのやり方に慣れてきたはずなのに、過去を思い出してしまうのは宿命なのか。
「悟がかなり大変な道を歩んできたことは知ってる。悟からも、ご両親からも聞いたから」
「……そうだね」
「みんな幸せになっていいんだよ。それは悟も例外じゃない」
 うんうん、と頷いて美穂は語る。
 やさしいこの人なら、かつての夢を伝えてもいいかもしれない。たまに一人になると取り出す、心の中に深く埋めてしまった夢を。
「昔の夢の話を、してもいいかな」
「もちろんだよ。どんな夢?」
 少し間を置いて、口を開く。
「ゲームクリエイターになりたかったんだ」
 自身の口がゆるく弧を描くのを感じる。十年以上ずっと、変わらない気持ちだ。
 口を薄く開けたのち、美穂は目を細める。
「いい夢じゃん。悟らしい」
 そして、おもむろに人差し指を立てた。
「いいお知らせです。知り合いにゲーム業界関係者がいます!」
「……ほ、本当!?」
「うん! 看護学校の同期のパートナーで、小さいけどチームで開発してるって話、聞いたよ」
 美穂は「連絡取ってみようか?」と笑っている。
「ぜひ!」
 つい、口元がにやけてしまうのを感じる。夢の欠片は意外と近くに落ちていて、僕が尋ねるのを待っていたのだ。
「幸せになろうよ、悟」
 僕の目を見ながら、声をかけてくれる。
「安心してよ。私が一緒にいるから」
 応援の言葉を送ってくれる彼女は、やさしく微笑んでいる。
 安心して。その言葉をさっきも聞いたような気がしたが、なにも思い出せなかった。
 思い出せなくても別にいい。今、目の前にいる人に、感謝を伝えよう。
「本当に、ありがとうね」
 笑みを見せると、美穂は口元をゆるめた。
「帰ろっか」
 声をかけると、美穂は僕の隣に並んだ。二人で深夜の家路を行く。
 かつてのゲームタイトルを口に出すと、美穂も同じものを遊んでいたようで、話せる人がいて嬉しいと目を輝かせていた。夢はよりきらきらと、夜空から見守る星々のように僕の背中を後押ししてくれる。
 公園を出て、振り返る。鈴虫の声が相変わらず聞こえてくる。最後の深夜一時の公園を、目に焼き付けた。





「白昼夢は醒めるもの」凪橋さま