「苦い」
吸い付いていた手首から顔を上げて、少女は眉をひそめた。
「ムラで私に血を分けてくれてた人たちは、こんなに苦くなかった。しかも匂いまで珈琲の香りなんて、どれだけ飲んだらこうなるの?」
手摺りに凭れたまま、男は軽く少女を睨んだ。本当は少し小突いてやりたいくらいだったが、少量とはいえ血を出した後で急に動くと目眩がする。最初の何回かで学習した。
「あーそうかい。嫌だったら俺の血飲むのやめたら?」
「まあ、その辺の魔獣よりはマシ」
皮膚に僅か残った血液を舐め取りながら少女は宣う。このやりとりも何度目だろう。珈琲の過剰摂取は自覚している。だが、研究所を抜けるときも何をおいてでも持ち出した珈琲。何と言われようともこればっかりはやめられない。
「それに……」
「それに?」
「……なんでもない」
少女はぷい、と顔を背ける。幼さの残る仕草からは、最早オジサンといってもいい自分より前、大浄化より前に生まれたとは、とても信じられない。
吸血鬼は一定の年齢から外観の変化がなくなる。しかし長く生きたら精神的にも成熟しそうなものだが、そんな様子は微塵も感じられない。
「ねえ」
塔を吹き上げる夜風が、彼女の長い髪を揺らす。人間、それも中年に差し掛かった身には応えるが、吸血鬼である彼女は平気そうにしている。
「昔は、浄化が起こる前は、この街の建物すべてに灯りがついていたってほんと?」
月に照らされた眼下の街には、灯りも人の気配も一切なかった。
ぴちゃぴちゃ、耳元で音がする。なんだか首がこそばゆい。
身じろぎして、その何かから逃れようとする。頬にざらざらとした石畳が当たった。いつの間にこんな地面の上で寝てしまったのだろう。
「あ、生きてた」
淡々とした声が、鼓膜を揺らした。声の主を振り払うように身を起こし飛び退く。
周囲は真っ暗で、逃げようにも辺りの様子が分からない。恐らくは昨日の内に辿り着いた、廃墟ばかりの街のどこか路上のようだが。
情けないことに、上手く立ち上がれない。高鳴る心臓の音を聞きながら、じりじりと人影から離れる。
目が慣れてくると、ひとりの少女がぺたんと座っているのが見て取れた。十五、六歳くらいだろうか。彼女は人形のように無感動な目つきで、腰を抜かしたままの男を眺めている。
「あなた、この街の人?」
少女が首を傾げると、月光を反射した銀色の長い髪が華奢な肩を撫ぜた。仕草は無垢そのものであるが、首をいじくっていたのは間違いなく彼女なのだ。油断はできない。
「お、おまえ……」
呼吸を整えつつ少女を観察すると、鮮血のような緋色の瞳がきらりと瞬いた。――吸血鬼の種族的特徴である、緋色の瞳が。
背筋を冷たいものが走った。先ほどのアレは、血を吸おうとしていたのだ。
都にいる頃さえほとんど見ることがなかった吸血鬼。それもそのはず、彼らは大浄化の際に虐殺の憂き目に遭い、大いにその数を減らした。生き残ったほとんどの吸血鬼は人間を憎んでおり、接触を断つか餌として狩るかのどちらかなのでまずお目に掛かることがない。
「私、今日この街に来たばかりなの。ねえ、あなたこの街の人?」
身を乗り出しての勢い込んだ問いに、反射的に後退る。距離を置かれた少女は、暗がりでも分かるくらい眉尻を下げた。
「街には、たくさん人がいるって聞いてたわ。でも、来てみたら誰もいなくて……」
「聞いてたって、誰に」
やめろ、そんなことを訊いてどうする、と頭のどこかで冷静な声がする。今は早くこの場から逃げるべきだ。なのに、どうしても彼女から目が離せない。
「ムラの人たち。何かあったら、この街へ行きなさいって。きっと助けてくれる人たちがいるはずだから、って」
僅かに生き残った人間同士が、助け合いながら共同体を築いているとは聞いたことがある。そこに吸血鬼もいるとは初耳だが。
しかし、その「ムラ」というやつは余程のお人好しばかりが集まったのだろう。こんな乱れきった世の中で、見ず知らずの他人、それも吸血鬼を助けるような物好きはいないだろう。それを信じてここまで来たという彼女も大概である。
「何か、あったら? 何かあったのかよ」
「もう、あそこには、誰も」
少女は途切れ途切れに言葉を紡ぐと、一粒の涙が頬を伝った。
「みんな、死んじゃった」
感情の読みにくい硝子玉のような瞳から、次から次へと雫が溢れてくる。それに気づいていないかのように、少女は男をただ見つめていた。
男は目を逸らし、ぼりぼりと頭を掻く。相手は魔族、それも吸血鬼だ。同情も油断も本来するべきではない。が、自分自身も今は軍の研究所を裏切って都を逃げ出してきた無法者だ。こっちだってロクな身の上じゃない。
ひとまず話し始めてからは、こちらを食物として見ていないように思える。敵意や害意も感じられないし、上手く手懐けられれば、もし追っ手が来たときに……。
「あー、お前も大変だったんだな。その、なんだ。みんな死んだってのは、何かに襲われたのか」
最近増えているという魔獣の群れか、盗賊か、軍の粛正部隊か、集落が全滅する可能性を指折り数えられるのが恐ろしい。
「ううん。病気とか、年を取ったりとか……。みんな私より先に死んじゃった」
つまりは自然死か。浄化による混乱が落ち着いて四半世紀と少し。都市部でも生活水準が下がったせいで寿命が短くなっているのだから、小さな共同体など言うべくもない。次の世代を残せずに皆息絶え、死ぬことができないこの少女だけが残ったのだろう。
「そうか、それでここまで来たのか。苦労したろう」
刺激しないように当たり障りのない返答をする。対話をしつつ相手の様子を探り次の手を練らねば、と考えてはたと気づいた。吸血鬼だとか以前に、この年頃の娘とあまり話したことがないことに。
「あなたも、何かあったの」
「は?」
続く言葉を探していると、思いがけず少女のほうから声をかけてきた。
「お前も、って言ってたから。あなた自身も大変なことがあったのかなって」
ふいに、夜闇の中でもはっきりと分かる透き通るような瞳に見つめられ、咄嗟に言葉が出なくなった。
「さっきはごめんなさい。あんまり顔が青いし、体も冷たかったから、その、死んでるんだと思って」
生きてると分かれば声を掛けたんだけど、と少女はきまり悪そうに少し俯く。
「ムラの人がいなくなってからは、魔獣の血で凌いでたんだけど、やっぱり美味しくないしあまり力にならないしで、ちょっとお腹空いちゃって……。生きてる人ならちゃんと許可を取って血を貰わないとダメって言われてたのに……。本当にごめんなさい。もう勝手に血を吸おうとしたりしないから」
「…………」
「ねぇ、大丈夫?」
「……あぁ、大丈夫だよ」
いつの間にか傍まで来ていて、こちらの顔を覗き込む彼女に、ようやくそれだけ返し目線を逸らした。
「大丈夫さ。ただ、仕事が嫌になって逃げてきただけだからな」
「仕事?」
「ああ、どうでもいいような仕事。それより、俺が血を分けてやるからこの街を調べるのを手伝ってほしいんだ。ああ、そうだ。まだ名前を聞いてなかったっけ」
「ほんと? 私コリツィっていうの。でも私、吸血鬼って言っても、大したことはできないよ」
「いいんだ、ちょっと捜し物を手伝って欲しいだけだからさ。とりあえず、よろしくな」
握手、という習慣を知らないのか、差し出された手を少女は不思議そうに見つめている。いきなり握手でもなかったか、と少し恥ずかしくなって引っ込めようとした手を、白く細い指が包んだ。
「うん」
初めて少女――コリツィは含羞むように微笑んだ。
「全部の建物、とはいかないだろうけどな。今ぐらいの時間だと、殆どの家や飲み屋なんかの夜も営業してる店、残業を頑張ってる役所なんかの灯りで賑やかだったぜ。街灯もあったし」
浄化の果てに大きく人口が減り、今では都と、消滅を免れたいくつかの街が細々と生き残っているのみである。この街のような廃都市のほうが多いくらいだ。かつての夜の賑わいなど望むべくもない。
「そう、綺麗だったんでしょうね」
コリツィは塔の屋上から上半身を乗り出し、暗く沈んだ石造りの街を見下ろす。街の中心に屹立し、四方を遠くまで見渡せるこの場所は彼女のお気に入りだった。内部に管理施設と付随する仮眠室も残っていたので、何だかんだここに生活の拠点を置くことになった。
コップ代わりのビーカーをタイルの上に置き、「危ないぞ」と手摺りに置かれた腕を下から掴む。まだ、立ち上がると目眩がしそうだった。
この吸血鬼少女と暮らすようになって数週間。夜行性の彼女に合わせていたらすっかり生活が昼夜逆転してしまった。慣れるのに少し時間は掛かったが、研究所にいた頃、昼も夜もなく働いていたのに比べたら余程マシだった。仕事をせっついてくる上司や嫉妬深い同僚がいないとなれば尚更である。
「大量の魔力鉱石を消費した灯りだからな、そりゃ綺麗だったろうさ」
平和だった頃は、膨大な魔力を持った鉱石を焚べる拠点が街にひとつあり、そこから生活に必要なエネルギーを各家庭や施設に供給していたそうだ。
このシステムによって個人の能力による格差や差別がなくなったのは良いが、誰も彼も魔術が使い放題になって鉱石の消費が激しくなり、資源の枯渇なんかが叫ばれていた。現在は、混乱の果てに鉱石の大規模採掘の技術も道具も失われたため、生活水準と引き換えにその心配はなくなった。
「きっとその頃、この街に人がいた頃の私は実験室にいて、外の世界なんて存在することすら知らなかったけど」
大浄化前、人狼や吸血鬼など魔族の力を兵器に利用する実験が行われていたと噂には聞いていた。彼女はその過程で生まれたらしい。
いわゆる交配実験である。その結果生まれたコリツィがどんな目に遭ったかは、本人はあまり語りたがらないが想像に難くない。彼女の表情が乏しいのも、その辺りの経験に起因しているのだろう。
「ムラの人たちが教えてくれたの。夜、高いところから街を見下ろすと、光の花畑みたいだった、って」
ムラでのことを思い出したのか、少し微笑んだように見える。こうして暮らしている内に、以前より夜目が利くようになった。
彼女が幸運だったのは、幼いうちに実験施設から出られたことだろう。非道な実験を行うことに耐えきれなくなった施設職員が逃げ出す際、一緒に連れ出され例の「ムラ」に辿り着いたそうだ。そこでよほど大事に育てられたようで、一通りの教育も教養もある。今も塔の中からほじくり出してきた本を膝に載せて、花畑で遊ぶ子どもたちが描かれた挿絵を撫ぜている。
「見てみたかったな」
吸血鬼である彼女は、日光に当たると消滅してしまう。挿絵の子どもたちのように、日差しの下でたくさんの花に囲まれて遊ぶ、ということはできないだろう。そして、優しい人たちが教えてくれた綺麗な夜も見ることもできずにいる。――とかくこの世は儘ならぬもの、ということなのだろうか。
「じゃあここに来て、すっかり廃墟ばかりになっていてがっかりしただろう」
「うん、がっかりした。でも今はここから暗い夜の街を眺めるのも悪くないかなって。あとね、あなたが……」
手摺りから降りたコリツィが男の横に腰掛ける。珍しく肩が触れそうな距離で、真剣な目つきで顔を覗き込んできた。
「俺が?」
驚いて問い返すと、なぜか少し怒ったような、困ったような表情で再度、ぷいと顔を背けた。
「なんでもない」
ピー、と遠くから笛のような音が聞こえる。
やっぱり来やがったか、と舌打ちしながら身を起こす。研究員ひとりごときの為に、こんな辺境までお越しとは軍も暇なものだ。
念のため、魔術で警報を仕掛けていてよかった。だが広い範囲をカバーするため、仕組みを単純なものにせざるを得なかった。その為、向こうにもこちらの存在に気づかれただろう。
「コリツィ、起きろ」
傍らで眠っていた彼女を揺さぶる。日が落ちたばかりで、吸血鬼には早朝も同然だろう。普段はもっと夜が更けてから目を覚ます。
「ん……。どうしたの?」
「軍のヤツらが来やがった。俺はここで足止めをするから、お前は先に逃げろ」
「え、でも……」
「北東の方から来てる。南側に門があっただろ、そこから街を出るんだ。で、道なりに山を越えていくと、その先に小さいがまだ人がいる町があったはずだ。そこを目指せ。そこで、住人に紛れて潜伏するんだ。ああ、町で会ったヤツに、最初っから吸血鬼だなんて自己紹介するなよ。信用できそうな人間を見つけて、仲良くなってから正体を明かすんだ」
手早く必要な荷物をかき集める男を、コリツィは何が起きているか理解できないような、不安そうな目で見つめている。
「あなたは? 一緒に逃げないの?」
「俺はまだやることがあるからな。気にせずさっさと逃げろ。危ないから、何があってもここには戻ってくるなよ」
しっかりと目を合わせて力強く告げると、彼女は少し迷いながらも、最後には覚悟を決めたように頷いた。
「きっと、追いかけてきてね」
コリツィが塔を出たのを見届けて、男は階段を降り始めた。
彼女には言ってなかったが、この塔には地下室があった。例の、魔力鉱石を焚べる動力施設である。
もちろん現在は鉱石が尽きているので、街灯ひとつ灯すことができない。昔、この街を出た時には、まだ稼働していたのだが。
コリツィがいたムラの人が言う通り、最近までここには人が細々と暮らしていた。少なくとも、男が住んでいた十数年前までは。
軍の仕事を得て都に住むようになり、職場である研究所に軟禁状態で働かされ、気がつけばそれだけの年月が経っていた。
研究に嫌気がさしたとき、脳裏に浮かんだのはこの街のことだった。残してきた両親と弟妹たち。一番下の妹などは、ようやく立ち上がれるようになったばかりだった、などと思い起こしたときにはもう研究所を脱出していた。
勝手に抜け出せば命を狙われるのを承知だった。だが、戻った故郷はこの有様だった。
コリツィにも手伝ってもらい、家族の痕跡を探した。初めは住んでいた家の周辺。そこから段々と範囲を広げていったが、分かったのはもうこの街には誰もいないということだけだった。
家そのものや家具などの調度品は残っているのに、綺麗に人間だけが消えている。コリツィのムラと同じで、想定される原因は指折り数えられる。が、突き止めたところで人々が戻るわけもないと悟ってからは、考えるのをやめた。
もしこれでひとりきりだったら、自ら命を絶っていたかもしれない。けれどそうしなかったのは、偏にコリツィがいたからだ。
寄る辺のない、世間知らずな少女。末の妹が生きていたらこれくらいの年頃だったはず、と気づいてからは勝手に重ね合わせていた。彼女を生かすことで、自らもまた生きていてもいいように思えた。
だが、それも今日までだ。軍に見つかったら命の保証はないし、コリツィもまた実験施設に逆戻りか、よりひどい目に遭うかもしれない。
とりあえずこの街から逃がすことができて良かった。まだ敵には彼女の存在は知られていないし、自分がここにいることが分かれば他に注意は向かない。
――外はそろそろ黄昏から完全な夜へと移り変わっただろう。男は動力炉に手を掛けた。
彼が都で研究していたもの、それは生きた人間を魔力鉱石の代わりに焚べて、エネルギーを生み出す技術だった。
もちろん焚べられた人間は死ぬ。実験の過程で、もう何人もの被検体が命を落としている。そうまでして、より強い兵器を作りたいのだそうだ。
研究はほとんど完成していた。最初期から関わっていた男の頭の中には、術式に必要な要項の全てがあった。
ひとつ深く息を吸い込み、自らに術を掛けた男は、炉の中に飛び込んだ。
コリツィは暗い山道をひとり急いでいた。彼はああ言っていたが、町に着いたら事情を全て話して助けを呼ぶつもりである。
吸血鬼の脚力で急いだので、もう道程も半ばで山頂付近に差し掛かるところだ。一刻も早く目的地に着くため足を速めたとき、背後がぱっと明るくなった。
何事かと立ち止まって振り返る。光の発生源、街の方を見下ろすと、建物全てに灯りが点いていた。
「わ……」
聞いていた通り、本当に光の花が咲いたようだった。あまりにも綺麗で、今の状況も忘れてしばし見入ってしまう。
知らず知らずの内に、涙が零れ出る。この光景を、一生忘れないだろうと思った。
ふいに、街から吹き寄せる風が髪をかき上げた。風の中から、嗅ぎ慣れた珈琲の香りがした。
「珈琲と廃都市の灯り」白瀬るかさま
