『よる』に呑まれる

 山に沈む夕日が空を橙に染め上げ、黒い稜線が山のシルエットをくっきりと浮かび上がらせる。

 玄按和尚は小高い丘を見上げた。

「これは……『よる』を呼び寄せたか」

 水を張った田に夕日の残滓が跳ね返る。もう小半刻もすれば畔と田んぼの境目も見えなくなるだろう。玄按和尚らは早足で先を急いだ。

「ごめん!」
 丘の麓に広がる集落にたどり着いた和尚は、二人の供を引き連れて村で一番大きな門構えを持つ屋敷の扉を叩いた。

「これはこれは御坊様方、このような夜更けに難儀をされておいでか?」
 中から現れたのは齢五十を下らぬと思われる中年の男だった。

「拙僧は高林山真宝宗、別格本山那須谷寺の権少僧正、玄按と申す」

「なんと! わしゃあ、この村で名主をしております喜八郎と申します。そのような高位の御坊様が何ゆえこのようなさびれた村へ?」

「此度は御遠忌大法会のため総本山まで出向いた帰りだが、この地に怪異の気を感じた故、一つ助言に参った所存」

「怪異……ですと? ま、ま、ひとまずむさくるしい家ですがお上りくだせぇ」
 喜八郎は目を白黒させながら、玄按和尚らを客間へと通しつつ、慌てて他の村方三役を屋敷に呼び寄せた。

「怪異とは恐ろしいこって!」
 組頭の平治は話を聞くとそわそわと大きな体を揺すった。

如何様師いかさましが一杯食わせようとしてるんじゃなかろうな?」 百姓代の富市はいぶかしげに眉根を寄せた。

「失礼なことを言っておくれでないよ。立派な袈裟懸けをつけた御坊様方だ、那須谷寺の権少僧正を名乗って御座った。ありゃ本物に違いないよ」
 喜八郎の発言に、平治と富市は顔を見合わせる。

「そんな立派なお坊様が、うちの村になんのご助言を下さるってんだい?」
 平治はますます緊張して土間をうろうろと歩き出した。

「そんなら一つ、話を聞かせてもらおうじゃないか」
 富市はそう言って平治を捕まえて背中を押すと喜八郎に付き従って客間へと進んだ。

「大変お待たせいたしました。こちらは村方三役を務めます、組頭の平治に百姓代の富市にございます」
 全員揃うと、玄按和尚は口火を切った。

「この村の北にある丘には、誰ぞ住んでおるのか?」
 丘の話を出した途端、三人は隠し事を暴かれたかのような渋い顔をした。

「何やら訳ありか?」
 玄按和尚は落ち着いた声で問いかける。喜八郎は観念したように話し出した。

「あの丘には、身寄りのないおなごが一人住んどりまして……。かわいそうに商人の男に騙されていたようでしてね、その上両親が死んでからはすっかり病んじまいまして。村でも気にはかけておるんですが」

「気にかけておるというわりには弔ってもおらぬようだがな。その者はもはや身罷っておるぞ」

「な、なんと? フキが死んだと申されるか!?」
 三人は顔を見合わせる。

「た、確かにここのところ田植えに忙しく、様子を見に行く間もなかったわな」
 平治は真っ青な顔をしながら、額に浮かぶ汗を手拭いでひっきりなしにぬぐっている。

「それでフキが怪異になったとでも仰るんで?」
 富市は気丈に玄按和尚へ食って掛かった。

「いや、その娘が怪異になったのではない。怪異『よる』を呼び寄せたのだ」

「『よる』ってのは……?」
 喜八郎は恐る恐る尋ねた。

「『よる』は寄る辺のない魂が呼び寄せる怪異だ。『よる』が近づくと寒々しく辺りは暗くなり、周囲が見えにくくなる」

「そんな薄気味の悪い者が村に居ついていただなんて……早速退治せねば!」
 鼻息を荒げる富市を和尚は諫める。

「『世を留める』と書いて『世留』と読む。つまり『よる』を葬れば、世は流れこの世は滅びる。すなわち『よる』を殺してはならぬ」

「そんな! それじゃ一体どうしろってんで?」
 体の大きな平治は情けない声を上げた。

「今はまだ生まれたての赤子のようなものだ。『よる』がものを知らぬうちに『よる』を呼び寄せたフキの魂を成仏させることができれば、怪異は去っていくであろう」

「フキの魂を成仏って……そりゃ御坊様方にお布施でも収めて祈祷してもらえってんで?」
 富市が食って掛かると、玄按和尚は首を横に振った。
「寄る辺のない思いが『よる』を呼び寄せた。その孤独を癒さねば、いくら念仏を唱えようともフキの魂は浮かばれぬ」

 夜も更けたとあって、その晩玄按和尚らは喜八郎の屋敷に泊ることになった。
 和尚らが離れに渡ると、喜八郎、平治、富市の三人は茶の間に集まって額を突き合わせた。

「どうする? 孤独を癒やすったって、フキの奴はもうおっ死んじまってんだろ?」
 ガシガシと頭を掻きながら、富市はじれったそうに舌打ちする。

「フキが魂となってあの小屋に居ついておるから、怪異などを呼び寄せるんじゃ」
 喜八郎は冷静に状況を吟味している。

「そんなもんどうやって癒やすってんだい? 孤独がダメなら誰か送り込むってのかい? 俺は嫌だよ?」
 平治は端から逃げ腰だ。

「誰だって嫌に決まってる! ほんでも本当にフキが死んどるなら、誰かが行って早桶に入れてやらにゃなるまいて」

「いつ死んだか知らんが、思い返せば一月ひとつきのよう見とらんのじゃないか? もう骨にでもなっとりゃ、あとは埋めるだけじゃろ」

「そんなら、イノにやらせりゃええ」

「ほうじゃほうじゃ、イノがおった。めしいなら、死体も見えんのじゃから、恐ろしいこともなかろうて!」

「ほんだら、イノを呼んで、フキの家を片付けさそか」

「でもよ、フキの家にゃ、怪異がおるんじゃろ?」

「昼日中なら暗闇にひそんどるのやないか? それにイノならば『よる』に呑まれたところで何の障りもないわい」

「ああ、醜女が過ぎて捨てられた赤子に、十年もただ飯食わして来たんじゃ。こんな時くらい村の役に立ってもらったとて罰は当たらん!」
 三人は口々にそんな無責任なことを言い合った。

 こうして喜八郎はさっそく女中部屋からイノと呼ばれる少女を呼び出した。
「丘の上の小屋でフキが亡くなったそうでな、ちょいとお前さん明日にでも行って片してきておくれ」

 平治と富市もこうなると急に元気になって、いかにも気の弱そうなイノを前に威丈高いたけだかに命令した。

「小屋の中には『よる』っちゅう怪異がおるらしい。『よる』が出てきたとしても、危害を加えちゃならんぞ」

「そうじゃ、イノ! お前、そのまま残って『よる』の世話をしてくるんじゃ」

 こうして碌に説明もないまま掃除用具と握り飯を持たされたイノは、翌朝まだ日も登りきらぬうちに杖をつきながら丘へと続く道を登っていた。

 丘の上のケヤキの木の下には、うち捨てられた掘立小屋があった。家の周りは、ぼうぼうと生い茂った藪に覆われて、もはや人の出入りした痕跡も見られなかった。イノは藪をかき分けて小屋の入り口にたどり着くと、立て付けの悪い板戸を何とか半分ほど引き開けた。

 中からは意外にも冷たく澄んだ空気が流れ出てきた。イノは杖を頼りに家の中へと入っていく。

 一歩踏み込むとそこは静寂に包まれていた。先ほどまで聞こえていた葉擦れの音も鳥のさえずりもピタリと止んで、空気がピンと張りつめているようだった。

「お邪魔します」
 イノは急に緊張して小さく口の中で家の中に入る許しを請うた。するとふいに足元にごわごわとしたものが触れた。

「ひっ!」
 イノは驚いて土間で転倒した拍子に杖を見失ってしまった。
 四つん這いになって手を伸ばし杖を探すイノの手に、またごわごわとした何かが触れた。

「冷たい?」
 この家から流れ出てきた冷気の源はこのごわごわとしたもののようだとイノは思った。怖いという感情よりも好奇心が勝った。イノは自らごわごわとしたものにそっと手を伸ばす。
 ごわごわは逃げることなくじっとそこにいた。まるで真っ黒な子熊を撫でているようだった。

「お前様が百姓代のおっしゃってた『よる』っちゅう怪異なのかね?」
 ごわごわはピクリと『よる』という言葉に反応した。

「組頭はわしに、お前様の世話をするようおっしゃったんじゃが……世話っちゃ何をすればいいだかね?」
 ごわごわは何もしゃべらない。イノはしばらく待っても言葉が返ってこないと分かると、一方的に話しかけた。

「わしは『イノ』っち呼ばれちょる。イノシシみたいに鼻が上向いた醜女やから『イノ』なんじゃと。わしは捨て子じゃったから、わしを拾った名主様がつけて下すったんじゃ」
 真っ暗で静かな小屋の中、ひんやりと冷たい土間の土の上にぺたりと座り込んで、『よる』を撫でながらイノはしゃべり続けた。

「わしがまだ小さい頃、名主様んとこの子どもらに醜女、醜女と追いかけられてな。崖から落ちて頭を打ったんよ。そん時の衝撃で目がよう見えんようになってな。目が見えんでは不便なもんで、役立たずの無駄飯喰らいと言われとるんよ」
『よる』は再びピクリと体を震わせた。

「ほんでも今回初めてわしがこの家の掃除とお前様の世話を仰せつかったんじゃ。ようやく仕事を任せてもらえたんでな、一生懸命やるからよろしゅう頼んます」
 イノはそう言って『よる』にペコリと頭を下げた。

 イノは杖を探し当てると、草履を脱いで板の間へと上がった。

「この家の中に仏さんがおらっしゃるはずなんじゃが……お前様には見えとるんか?」
 狭い家の中を何度行き来しても、イノはとうとうフキの遺体を見つけることができなかった。

「おかしいのぅ、野犬にでも食われてしもうたかの?」
 イノは申し訳なさそうにそう呟くと、真っ暗闇の中でそっとフキのために手を合わせた。イノの足元にごわごわしたものが触れた。

「この暗がりでも『よる』にはわしが見えとるんか? 夜目が効くんかのぅ? そうじゃ、握り飯をもろうて来たんじゃ」
 イノは懐から笹の葉に包まれた握り飯を取り出した。板の間に座り込んで握り飯を差し出すが、待てども『よる』は食べる気配を見せない。

「怪異は握り飯など食わんのか? やっぱりお前様は人を喰らうんかのぅ? 醜女でよけりゃ、わしを食うてもろうても構わんが」
 イノがそう言うと『よる』はイノに甘えるようにごわごわの毛を押し付けてきた。

「なんじゃ、腹は空いとらんのか」
 そう言ってイノはハッと気づいたように手を止めた。

「ひょっとしてお前様、フキさんを喰っちまっただか?」
『よる』は答えない。

「ほんならこの握り飯はわしがもらうことにしよう。次にお前様がわしを喰うとき、少しばかり旨くなるかもしれんでの」
 そういって、イノは真っ暗な小屋の中で握り飯をほおばった。

 小屋を出ると、すっかり夜が更けていた。藪に降りた夜露の匂いが鼻に飛び込んでくる。下草の中からジーとおけらの鳴き声が聞こえていた。

「また明日、来るからな」
 イノは半開きの小屋の扉に向かって声をかけると、杖をつきながら丘を下った。

「イノが戻ってきよった!」

「どうじゃった? 怪異は居ったんか?」
 イノが屋敷に戻ると、喜八郎、平治、富市らはイノを取り囲んだ。

「真っ暗な小屋の中になにやらゴワゴワしたもんがおり申した」

「なんと! やっぱりあの小屋には怪異が居るっちゅうことか!」

 イノの報告を受けて平治はブルっと体を震わせた。

「ほんでもイノは無事に帰ってきよったじゃないか。そう怖がるもんでもなさそうじゃ」
 喜八郎は自分をなだめるようにそう声を出した。

 こうしてイノは毎日、握り飯をもって小屋へ来ては下草を刈ったり、家の中を雑巾がけしたりして一日過ごした。『よる』はイノの動きに合わせてつかず離れず小屋の中をついて歩いた。イノは時折縁側に腰かけ『よる』のゴワゴワな体を撫でてやりながら色々『よる』に話して聞かせた。

「今日は村の豊作祈願祭じゃ。田植えが終わると毎年神様に捧げものをして秋の収穫を祈るんじゃ。おこわを焚いて、団子をこしらえて、芋をふかしての。やぐらを立ててお囃子も出て、みんなして夜中まで踊るんじゃと。わしは目が見えんでやぐらからは離れておるが、あのお囃子が聞こえてくると自然と体が動くんじゃ」
 そう言ってイノは楽しそうに体を揺すった。

 やがて日が暮れて、空には満天の星空が広がった。村の広場にかけられた提灯に火が入り、夜の村にぽっかりと祭り会場が浮かび上がることを、盲いたイノは知らない。

 ただ祭囃子の笛太鼓が丘の上まで響いてくると、嬉しそうにパッと顔を上げた。

 不思議なことに、小屋の中に入ってしまうと、あれだけ鳴り響いていた祭囃子の音もまるで聞こえなくなってしまう。イノは下草を刈って広く開いた玄関口に立って、お囃子を聞きながらひとり体を揺すっていた。

 ザッザッと草をかき分けて人が近づいてくる音が聞こえて、イノは動きを止めた。

「イノ!」
 聞き覚えのある声に、イノはサッと身を固くする。

「名主様!」
 まだ刈り切れていない藪の間から喜八郎たちが現れた。

「なんじゃ。怪異が居るなどと言いながら、前に来た時とそう変わっとらんじゃないか」
 平治はぷんぷんと酒の匂いを振りまきながら小屋へと近づいてくる。

「フン、怪異だなんだと騒ぎすぎなんじゃ。わしゃ最初からあの坊主どもを胡散臭いと思うておった!」
 富市はそう言ってフンッと鼻を鳴らした。

「この小屋に気の触れたフキが一人で居るのは何かと都合が良かったんじゃが、怪異に喰われるとは想定外じゃったな。なかなかの美人であったに、もったいないことをした」

「名主様、何を……?」

「まぁ、醜女でもおなごには違いない。暗けりゃ顔も分かるまい」
 富市はそう言ってグイッとイノの腕を引っ張った。

「痛い!」

「騒ぐな。今日からお前がフキの代わりを務めるんじゃ」

「フキさんの、代わり?」

「フキは商人の男を待ち続けておかしくなっとったでな、寂しくないよう皆で慰めとったのよ。正一と名乗りさえすりゃ、誰かれ構わず喜んで小屋に連れ込みよったでな!」

「それって……」

「田植えが終わってさぁ一息つこうと思ったら、楽しみがのうなっておったんじゃ。せっかく小屋を掃除したんじゃろう? わしらが存分に使こうてやろう」

「さぁ来い!」

「嫌!」

「騒ぐなと申しておろうが!」
 富市が大きく腕を振り上げ、イノはギュッと体を小さく丸めて縮こまった。しかしその腕がイノの上に振り下ろされることはなかった。

 ガタガタッと大きな音がして小屋の入り口の扉がはずれ、まるで山おろしの様な冷たい風が吹きつけた。
 夜の闇とはまた一段濃さの違う闇が辺りを包むと、周囲から忽然と音が消えた。真っ暗な舞台の上に立つ役者のように、男らとイノの姿だけが薄明るく浮かんで見えている。
「な、なんじゃ!? こりゃいったいどうしたこっちゃ!?」
 うろたえる喜八郎と平治の耳に、ひきつったような富市のうめき声が届いた。いつもは強気な富市の声が、弱弱しく震えている。

「おい、どうした富市?」
 背中側から富市の肩をつかんだ平治は「痛っ」と小さく声を上げて素早く手を引っ込めた。

「なんじゃ、まるで氷のようじゃ!」
 富市の体から、ユラユラと白い冷気が上がっている。富市はヒューヒューと浅い呼吸を繰り返している。

「なんぞあった、富市!」
 喜八郎が声を張り上げると、富市はくるりと振り返った。その目は漆黒に染まり、何も映してはいなかった。

「おい、富市!?」
 すっかり酔いの冷めた声で平治が富市の名を呼ぶと、富市はがくがくと震え出した。

「夜に……呑まれた」
 ただ一語、そう言い残すと富市はガクリとその場に倒れ込み、やがて真っ暗な闇に吸い込まれるようにして消えていった。

「うわぁぁぁぁっ、か、怪異だ!」
 すっかり腰が抜けた平治は地べたに座り込んで尻で後ずさりしている。富市を飲み込んだ闇はシュルシュルと蛇が這うような音を立てて平治に巻き付いた。

「や、やめろ! こっちに来るな!」
 平治は涙と鼻水をまき散らしながら必死に抵抗を試みるが、瞬く間に平治の巨躯は、細長い闇に絡め取られた。

「あたしゃね、ただここで正一さんを待ってただけなんだ」
 突然、小屋の中から愁いを帯びた女の声が聞こえてきた。

「フキさん……?」
 声のする方に向けてイノは問いかけた。

「一人待つ身の夜は長くてねぇ。いつしかあたしゃ『よる』に捕まっちまったのさ。そうして暗くて静かな『よる』の中で、ただひたすらにあの人の帰りを待ってたんだ」
 フキは滔々としゃべり続ける。目の見えないイノにはフキの姿は見えない。声を頼りに手を差し出せば、ゴワゴワとしたものに触れた。

「『よる』……お前様がフキさんだったのかい?」
 イノの問いには答えず、フキの声は平治を断罪し始めた。

「あんたたち、あたしの魂が『よる』に囚われて留守にしているのをいいことに、正一さんの名を騙ってあたしの体を好きなようにしてくれたようだね」

「ひっ、か、堪忍……かんにんしてくだっせ……」
 平治は体中に闇を巻きつけながら『よる』の前に這いずってきて土下座をして見せた。

「あたしゃね、この世にゃほとほと愛想が尽きた。このまま暗い『よる』の中で静かに沈んでいこうかとも思った。だけどね、あの人の魂がこっちの世界の『夜』の中で、あたしを探して彷徨ってるんだよ。あたしはこの怪異から抜け出して、今度こそあの人の魂を迎えに行ってやらなくちゃいけないんだ」

 フキはどこか挑発的な声色で平治に語り掛ける。
「ここにいるイノのおかげで、あたしゃこの『よる』から抜け出す方法を思いついたんだ。それはね、この『よる』の中に、あたしの代わりになる魂を取り込めばいいってことだったんだ。簡単なことだろう?」

 フキの声に反応して、平治に巻き付いていた闇はいよいよ顔を覆い始めた。
「や、やめ……」
 口を塞がれ、目と鼻を黒く塗りつぶされた平治はそのままがっくりと倒れ込み、やがて周囲の漆黒に紛れて消えた。

 平治の最期を見届けるとフキは喜八郎に問いかけた。
「ねぇ名主様。あんた、正一さんがあたしを置いて逃げたって言ってたよね?」
 喜八郎はジリッとわらじで砂利を踏みしめながら後ずさりした。

「し、知らん! そんなこと言った覚えもない!」

 フキは声を落とした。

「『よる』は飲み込んだ人間の記憶を読む。さっき呑み込んだ百姓代の記憶によると、正一さんはあたしに会いに山道を急いでた。腐った渡し板に足をかけた正一さんは板を踏み割り吊り橋から落ちかけたが、背負い籠がかろうじて荒縄に引っかかって宙づりになっていた。そこへあんたたちが通りかかった。正一さんは助けてくれとあんたたちに手を伸ばした。それなのにあんたたちはその手を無視して、あの人をがけ下に突き落とした挙句、背負い籠ごと荷物を奪った!」

「し、知らん……知らん知らん! ワシは何にも知らん!」

「とぼけても無駄だよ。『よる』に取り込まれた人間にゃ、隠し事なんてできないんだから」
 フキは氷のような声で喜八郎を糾弾する。

「あんたたちのせいで、あの人は死んだ! あんたたちの薄汚れた魂はお天道様の下で見るには醜悪すぎる。お天道様の下を歩く人間は”明けぬ夜はない”なんて言うけどね、『よる』に呑まれた魂には明ける夜などないんだよ。あんたたちにゃ、この冷たくて真っ暗な世界がお似合いだ!」

 ゴワゴワとした『よる』から闇が飛び出し、四方八方から喜八郎にとびかかっていく。フキは最後の仕上げとばかりに声を震わせた。

「そろそろ自分たちのしたことを清算してもらおうじゃないか。永遠の闇の中で、孤独を味わい続けるがいい!」

「や、やめてくれ! 助けてくれ! ワシが悪かった!」
 必死になって抗う喜八郎の抵抗もむなしく、闇は喜八郎の体を蝕んでいく。やがてトプンと音を立てて喜八郎は『よる』に呑まれた。
「ああ長かった。長かったねぇ」
 フキがホッとしたように呟いた瞬間、辺りに匂いと音が戻って来た。草の匂いがイノの鼻腔をくすぐり、賑やかな祭囃子の音が鼓膜を揺らす。
 ふいに、下草を踏みしめて近づく足音が聞こえてきた。
「怪異は満足して去ったようだ。村には近々、新しい村方三役が派遣されるであろう」

「誰?」
 イノは身を固くする。

「拙僧は高林山真宝宗の別格本山那須谷寺の権少僧正、玄按と申す」
「お坊様でございましたか……これは失礼をば……」
 イノはホウッと息を吐いた。

「怪異に囚われておった魂は、開放されたようだな」

「お坊様にはお分かりになりますんで?」
 イノが尋ねると、和尚はジャラジャラと音を鳴らして数珠を取り出した。
「ああ、分かる。お前にも特別に見せてしんぜよう」
 玄按和尚が真言を唱えると、小屋の入り口にぼんやりと光る男女の人影が見えた。

「フキと正一に相違ないか?」
 玄按和尚が問いかけると、フキはゆっくりと頭を下げた。

「左様にございます」
「フキさん?」
 イノがおそるおそる確認すると、フキはにっこりと笑って頷いた。

「あんたにゃ世話になったね」

「わしゃなんも……」

「あんた『よる』に向かって『醜女でよけりゃ、食うてもろうても構わんが』と言っただろう? あの時『よる』は言葉の通り、あんたを喰らおうとしたんだ。その瞬間あたしはふっと繋がれた鎖が解かれそうになるのを感じた。それで分かったんだよ、よるが他の魂を取り込めば、あたしは解放されるんだって」

 それを聞いていた玄按和尚はフキに尋ねた。
「わしはずっと千里眼で見ておったが、そなた、イノが『よる』に食われそうになるのを止めておっただろう? そのままイノを喰わせておけば、すぐにでも解放されたであろうに」

「あんな冷たい世界はこの子のいる場所じゃない。イノのそばにいるとき、あたしゃ夜明けにようやく顔を出したお天道さんの温かさを感じたんだ。この子は醜女なんかじゃない。この世で一番心の綺麗な人間だよ。そんな子を身代わりにして自分だけ助かるだなんて、いくらあたしでもそこまで堕ちちゃいないよ。そうして一時は諦めかけたその時、仇どもが雁首揃えてやって来たもんだから『よる』をけしかけて飲み込んでもらったってわけさ!」

「だがたとえ相手が罪人と言えども、人の魂を自分都合で奪ったのは罪となる」
 厳しい玄按和尚の言葉に、イノはうろたえる。

「フキさんたちはこれからどうなるんかね?」

「あたしたちは咎人だからね。これから罪を償ってくるよ」

「咎人?」

「そうさ、あたしにゃ自分が助かるために三人の魂を奪った罪がある。それに『よる』の中であいつらの記憶を読んで分かったんだけどさ、どうやら正一さんは生前あたしに裕福な暮らしをさせるため盗みを働いてたようでね。そのお宝に目をつけられて、あの三人に殺されたってんだから、悪事は巡り巡って自分に戻ってくるようになってんだね」

「因果応報といってな。悪事を働けば悪いことが還ってくる、逆に善い行いをして徳を積めば善いことが還ってくる」

「やっぱり、御坊様はちゃんとご存じなんだね。あぁ、あたしももっと早く気付けばよかったよ」

「気づきに遅すぎるということはない。今世で気づいたのなら、来世では実践するのみなのだから」

「お坊様、こんな罪深い私たちでも、やり直せるもんなんですかねぇ?」
 フキの言葉に玄按和尚は力強くうなずいた。

「怪異より解き放たれ輪廻転生の輪に戻れば、必ずや大日如来の加護のもとでやり直せる」

「そりゃあ、ありがたいこった……」
 そう言ってフキと正一は顔を見合わせほほえみ合うと、光る二本の帯となって夜のとばりに消えていった。

 玄按和尚は空を見上げて二人を見送ると視線を落としてまっすぐにイノを見た。
「さて、イノと申したか?」

「はい、御坊様」

「『よる』は三人分の魂を取り込み、フキと正一の二人を開放して消えた」

「へぇ」

「あと一人、闇から解放するとちょうど力加減が釣り合うようだ」

「まだ誰か他に、『よる』に囚われておったんですかい?」

「お前さんだよ」

「へぇ?」

「フキはそなたのことをこの世で一番綺麗な魂を持つ娘だといった。見たくもないような穢れの多きこの世だが、そなたの目はその中にある美しきものを映すことであろう」
 イノが生まれて初めて浴びせられる賛辞に戸惑いモジモジしていると、玄按和尚は再び真言を唱えだした。

 目の前の闇が渦を巻くようにして流れ去り、闇夜に鮮やかな山吹色が浮かび上がる。顔を上げたイノは、山吹色の袈裟を身につけた玄按和尚の顔を見た。

「お、御坊様のお顔が見えます」

「闇は祓われた。これからは陽のもとで生きるがよい」

「あ、あ、ありがたいこってございます」
 イノは言葉を詰まらせながら溢れる涙をこらえようと夜空を見上げた。雲のない空には満天の星が輝いていた。







『よる』に呑まれる 仁科佐和子さま