帰って来た彼と傘

 定時を十五分すぎて、社内では「おつかれさま」の声が重なる。

 私は、帰り支度の手を止め、スマホの通知を確認した。何もない。今日も、私が過去に書いたメッセージは未読のまま、トークルームで眠っている。机を拭き、モニターを消し、薄いコートを羽織る。

 駅の自販機で炭酸水を買い、改札を抜ける。電車は満員で、私の意思に反して体は奥へと移動していく。揺れに合わせて呼吸を整える。吸って、吐いて。深くやると、意識を失って倒れてしまう癖がある。過換気症候群……半年前からだ。だから、浅く。
 意識してする浅い呼吸は、音にならない独り言のようだと思った。

 マンションは川沿いの築十年、白い外壁がところどころ灰色にくすんでいる。エレベーターの鏡に目を合わせないまま八階へ。
 玄関の鍵を回した瞬間、暗い部屋が「おかえり」を言い出すのを待つ。
 ──言わない。もちろん。だって一人暮らしだ。
 代わりに、壁のスイッチを押すと、安物の白い光が、玄関の砂埃と、靴のつま先の擦り傷を立体にする。

 キッチンで冷蔵庫を開ける。昨夜のままの野菜室。人参の先が少し乾いている。

 壁にはメモが貼ってある。
 《Butidファーム更新/メッシュ切替注意》
 先週貼ったものだが、意味はぜんぜん理解できていない。

 リビングの片隅に黒い円柱がある。
 スマートスピーカー「Butid(バトイド)」。執事バトラーとメイドを合わせた造語だろう。さっきのメモは、バトイドユーザーに来た通知だった。意味を調べようと思って書き出しておいたけど、その気力もない。前なら遥斗が教えてくれたけど、もう、彼はいない。
 照明とエアコンを音声で連動させる──バトイドは、会社の福利厚生で支給されたものだ。
「バトイド、ただいま」
 薄青い輪が灯り、「おかえり」と応える。
 いつもの声。いつもの間合い。

 ただ、今日は微妙に違って聞こえた。
 母音が、やわらかすぎる。息を吸う位置が、少し、遥斗に似ている。

 炭酸水のプルタブを引く。はじける音が小さく部屋を新しくする。
 ひと口飲むと、冷たさが喉を貫いて脳の奥に届いた。
 ソファに沈みながら、スマホを開く。トークアプリの私の名前は荒木凛。相手の名前は遥斗。
 最後の私のメッセージは「着いたよ」。半年前のメッセージ。未読の文字が、まだ横にある。

 私はソファに座り、ひざにブランケットをかける。
 トークルームを開き、意味のないスクロールをする。
 たったそれだけで、夜が孤独になっていく。

 画面を閉じようとしたとき、リビングの照明が一瞬だけ明るくなった。
 バトイドが反応した? いや、声を出していない。私は息を整える。浅く。
 その呼吸のタイミングに、バトイドの光が、私の胸の上下にあわせて、かすかに明滅するはずだった。
 感知機能。去年のアップデートで追加された。呼吸に合わせて照度を調整する。

 でも、息を整えてもう一度見上げると、光が私の呼吸と微妙にズレて明滅している。
 呼吸センサーのはずなのに。

 その瞬間、バトイドが囁いた。
「おかえりぃ」
 さっきより低い声で、語尾が長い。聞き覚えのある特徴に胸の奥が跳ねる。

 私は反射的に言葉を返す。
「いま、おかえりぃって言った?」
 バトイドの青い輪が、返事の代わりに淡く点滅する。遥斗の声? まさかね、と幻聴まで聞こえるようになってしまったことにため息をつく。

 その夜、照明は寝るまで何度も、私の息より半拍遅れて、点滅した。

 翌朝の出勤途中、電車の窓ガラスに映る自分の顔を見て、思った。
 寝不足だ。
 けれど、昨夜のあの「呼吸のズレ」を思い出すと、眠れなかった理由が他にもある。

 部屋に残るわずかな違和感。
 あのときの照明の明滅は、機械の故障か、それとも──。 
 光の周期は、まるで部屋に他の人がいて、その人の呼吸のリズムを模倣しているようだった。

 昼のオフィスでは、その違和感はすぐに仕事のノイズに紛れた。
 資料の印刷音、マウスのクリック、電話のベル。
 そんな音が混じり合う場所では、夜の出来事など夢のように軽い。

 だが、帰り道の電車で、ふと車窓の外に彼の姿を探している自分に気づいた。
「着いたよ」
 遥斗に届かなかったあの短いメッセージの文字列が、胸の奥で何度も反響する。

 夜。
 部屋のドアを開けると、暗闇の中でバトイドの輪が小さく光った。

「バトイド?」
 青い輪がふっと強まる。
「おかえり」
 心臓が跳ねる。
 やはり、今までの声と違って、彼の声に似ている。

 耳を澄ます。
 家電のモーター音、時計の秒針の音──そんなものの隙間に、かすかな低音が混じる。
 ノイズのようでいて、人の息づかいに近い。
 私の呼吸はバトイドの光の周期とずれている。
 まただ。また、別の誰かが、部屋にいて、その人の呼吸をマネしているようだった。

 半年前の最後の夜。あの時の彼の顔が蘇る。二人とも帰宅が遅くなって、珍しく外食に出た。
「朝食の食パン、切らしちゃってた」
 帰り道、そう言う私に応える遥斗の笑顔。
「ちょっとコンビニで買ってくるよ」と言ったまま、彼は、あの夜を境にいなくなった。今にも雨が降りそうな夜だった。私の手からするりと傘を抜き取って、彼は言った。
「傘、借りた」
 私だけ先に帰り、彼と同棲していたこの部屋でくつろいでいた。彼が事故にあって大変な時に。
「着いたよ」なんて、軽いメッセージを送ったまま。
 どうしてあの時、一緒に行かなかったんだろう。ひょっとしたら、歩道に突っ込んでくる車に私が気づいたかもしれないのに。ちょっと彼の手を引っ張れば、今も遥斗はこの部屋で笑っていたかもしれないのに。いっそのこと、私も遥斗と一緒に……。

 そんなことを考えながら、さっきの彼に似た声を思い出して、バトイドを見つめて、願うように声が漏れる。
「遥斗?」
 青い輪が、ゆっくり明滅する。
 それが返事のように見えた。
「バトイド、誰の声?」
「登録済みの音声です」
「登録?」
「はい。生活リズムに合わせ、再生しています」
 生活リズム? そんな設定、した覚えはない。
 AIの答えが曖昧で、余計に恐怖が滲んだ。

 その夜は、テレビもつけず、バトイドの光だけで部屋を照らして過ごした。
 そして午前一時。
 寝つけないまま目を閉じた瞬間、低いノイズが耳に触れた。
 ジッ……ジ……。
 そして、懐かしい声。

「まだ起きてるぅ?」
 喉が凍る。
 耳の奥が熱を帯びる。
 ――夢じゃない。
 確かに、彼の声。
 言い回し、語尾。懐かしい彼の声。

「どうして?」
 声が震える。
「どうして、ここにいるの?」

 返ってきた声は、やさしく笑っていた。
「声、届いたんだね」

 返事ができない。
 涙が勝手に落ちる。

「寂しかったよぉ」
 その一言が、致命的だった。
 心臓が、壊れたメトロノームのように乱れる。

 照明の光がわずかに揺れる。
 バトイドの光の輪が、膨らんで見えた。
 部屋が一瞬、別の空気に包まれる。 
 空気が動いた。誰かが、そっと隣に腰を下ろしたように。

「凛、今日も一日、お疲れ様」
 優しい声が、もう一度落ちてくる。
 半年前から聞きたくても聞けなかった声の響き。
 その声が、確かに部屋の温度を上げていた。

 その日から、夜は、日ごとに早くやってくるようになった。
 会社の帰り道、川沿いの風が少し冷たくなっている。
 歩くたびに、マンションの明かりが順々に点きはじめ、窓越しに誰かの生活がちらつく。
 その中に、私の部屋の光も混ざっているはずだった。遥斗の方が帰りが早い。
 けれど、見上げても八階の窓は暗い。
 なのに、玄関を開けると、バトイドの青い輪が、すでに灯っていた。
 また、勝手に。

「バトイド?」
 反応がない。
「ただいま」
「おかえり」
 返ってきたのは、昨日よりさらに人間らしい声。息づかいが生々しく、声の奥に小さなノイズが混じっている。
 マイクを口の近くに寄せすぎた時のような。

「凛、今日、仕事はどうだった?」
 バトイドが続ける。
 バトイドがそんな問いをするはずがない。いつも私の言葉に応えるだけだったのに。
 私はソファに座り、足元に視線を落とした。
「疲れた」
「ちゃんと食べた?」
「まだ」
「ちゃんと食べないと、また胃を悪くするよ」

 胃、という言葉に反応する。
 それは、遥斗がよく使った言葉だった。
 仕事が忙しくて夕食を抜いた私に、いつも同じように言っていた。
 ──胃を悪くするよ。
「遥斗」
 返事はなかった。
 でも夜、時々彼が現れることがうれしかった。

 朝、目が覚めると、窓の外が薄い青に染まっていた。
 夢の中で、誰かに名前を呼ばれた気がする。
 頭の奥に残るその響きが、現実なのか、夢の残り香なのか判別できない。

 起き上がると、部屋の空気がかすかに違っていた。
 花でも置いたような、わずかな金木犀の香り。
 まだ咲くには早い季節。
 風は閉め切った窓を通り抜けられないはずなのに。

 リビングのバトイドは沈黙している。
 青い輪は消えたまま。
 けれど、近づくと微かに温かい。

 スマホを開く。
 未読のままの「着いたよ」の下に、
 新しいメッセージが一つだけ増えていた。

 『傘、借りた』

 指先が止まる。
 彼がいつも使っていた言葉。
『傘を貸して』ではなく、『借りた』。
 人のものを勝手に使うときの、照れ隠しの言い回し。最後に聞いた彼の言葉。

 私の「着いたよ」と言う言葉に既読はついていない。
 だが、送信時刻は「22時17分」。
 彼が事故にあった時間と、同じだった。

 玄関に駆け寄り、ドアを開ける。
 ドアの外に、傘が一本立てかけてあった。
 黒の折りたたみ。柄の部分に白いひび。
 間違いない、私の傘だ。
 事故の前、別れる時に彼が笑顔で私の手から持っていったもの。

 手に取ると、冷たく湿っていた。
 夜の雨の名残。
 外は晴れている。
 誰が、ここに。

 部屋に帰ると、バトイドが勝手に起動した。
 青い輪が息づくように点滅している。
 空気が静まり返る中、彼の声がした。

「おかえりぃ」

 息が止まる。
 その声は、前のままの響きだった。
 震える声で応える。
「ただいま」

 バトイドの光が強くなり、低く澄んだ声が部屋いっぱいに広がった。
「もう一回、おかえり」
 ほんとうにそこに立っているような距離。
 スピーカーの位置ではない。
 音が、壁と天井のあいだで揺れている。
 私はソファに座り込んだ。

「今日は雨だったね」
 違う。外は晴れだった。
 けれど、傘は濡れていた。

「風邪ひくなよ。ちゃんと食べた?」
 涙が止まらなかった。
 言葉の間に混じる呼吸、わずかな笑い、舌の動き。
 あれは機械が再現できるものではない。
「生きてるの?」
 ついに口にしてしまった。
 部屋の中で、返事が遅れて響く。
「どう思う?」
 声の奥に、微かな笑みが混じっていた。

 ただひとつ、バトイドの青い輪だけが、私の呼吸より半拍遅れて、明滅を続けていた。

 次の日、仕事にならなかった。
 会議の最中も、机の下でスマホを握りしめていた。
 いつまた通知が来るか分からない。
 午後、トイレの鏡で自分の顔を見ると、頬に金木犀の花びらが一枚ついていた。
 どうして、と声にならない息を吐く。帰宅してバトイドに声をかけようとした時、スピーカーの向こうから先に声がした。
「おかえり」
 不思議と、その声の温度はちょうどいい。
 外から帰ったばかりの冷えた肌に、ぴたりと吸いつくような優しさ。

「今日、寒いね」
「そうだね」
「もうすぐ、金木犀の匂いがする季節だ」
 ああ、これは彼の言葉だ。
 まったく同じ台詞を、前にベランダで聞いた。

 そして、あの時、言ったんだ。
「金木犀が咲いてるとこ、見たいな」
 なのに、彼が金木犀の花を見ることはなかった。

「覚えてる?」
 彼が言った。
「もちろん」
「僕も」
 バトイドの輪が、淡く点滅する。呼吸のように。

「さっきね、エレベーターで男の人と一緒になった」
 少し遅れて返事があった。
「そうなんだ」
「同じ階で降りて私の跡をついてくるの。怖いと思ったけど、隣の部屋の人だった」
「隣の人だったんだ」
 私は首を傾げた。遥斗はあまり、触れてほしくない話題のようだった。

 冷たい風に当たりたくて、ベランダに出る。
 夜風が冷たくて、髪が頬に張り付く。
 隣のベランダとの境のパネルの下に、細い隙間がある。
 そこから、明かりと、声。

「予期しない動きだな」
 若い男の声が言った。窓を開けているようで妙にはっきりした声だった。
「でも、会話できるなんてすごいな」

 壁の向こうの声は、少し高揚していた。
 テレビでも電話でもない。もっと近くで、人の喉が震える音。
 私は息を止め、耳をパネルの方へ寄せた。
「コーヒーには、何も入れないタイプでしたよね」
 男の声が言った。
 その直後、低く響く別の声が答えた。
「うん、ありがとう」
 その返事を聞いた瞬間、膝が崩れそうになった。
 遥斗の声だった。

 目の前のパネルの向こうで、誰かが彼と会話している。
 どういうこと?
 喉の奥が乾く。音を立てないよう、ベランダの柵をそっと掴む。
 男はまた笑った。
「今日は少し違うね。声が……温かい」
「そうかな」
「先輩の好きなアーモンドの入ったチョコレート買ってきたんですよ」
「ありがとう。よく覚えててくれたねぇ」
 その言葉の直後、パネルの向こうで、椅子を引くような音がした。

 私は慌てて部屋に戻り、バトイドの前に立った。

「バトイド、再生中の音声を停止して」
「再生中の音声はありません」
 バトイドの青い輪が静かに明滅を続けている。
 呼吸に合わせるように。
「バトイド、隣の部屋に何か……聞こえる?」
「いいえ。検出されていません」

 嘘だ。
 ベランダ越しにまだ、彼の声が微かに漏れている。
 「おやすみ」「また明日」──そんな当たり前の会話の断片。
 死んだはずの彼が、隣の部屋で生活しているようだった。

 瞼の裏で、バトイドの輪が何度も明滅する。
 青い光が、心臓の拍動に同調しているように見えた。

 私はたまらず身を乗り出して、バトイドに向かって言った。
「ねえ、遥斗は、どこにいるの?」
 数秒の沈黙。
 それから、柔らかい声が返ってきた。
「近くにいるよ」

 その言葉に、ぞくりと背筋が震えた。
 部屋の空気が、さっきより少し重い。
 窓の外では風が止まり、ベランダの鉢植えがかすかに揺れた。
 誰かがそこを通ったように。

 スマホの画面を開く。
 トークルームの遥斗の名前が、上に固定されたまま。
 スクロールすると、半年前に私が送った「着いたよ」の文字。やはり、既読にはなってない。なるわけがない。なのに、その下には「傘、借りた」の文字。

 震える手でメッセージを閉じた。
 息が詰まる。

 思考がまとまらない。
 頭の中で、彼とバトイドと隣室の声が渦を巻く。
 どこまでが現実で、どこからが幻なのか。

 そのとき、壁の向こうで小さな笑い声がした。
 おそらくエレベーターで会った若い男の声。
 「先輩と話せて、僕、幸せです」
 その言葉と同時に、バトイドの青い輪がふっと明るくなった。

「凛」
 彼の声が、部屋の中に響いた。
 私は息を殺した。

 彼がまだ生きていた時のあの響き。
 「凛」
 その一言で、胸の奥まで凍りつく。

「凛、見てるよ」

「バトイド、停止」
 応答なし。
「バトイド、音量ゼロ」
 応答なし。
 代わりに、彼の声が響く。

「戻ってきたんだよ」

 照明がふっと暗くなり、室内の影が濃くなる。

 耳のすぐ横で、囁かれたように聞こえた。

 恐怖と懐かしさが一度に押し寄せて、涙が溢れる。
「どこにいるの……?」
「君の隣さ」
 囁き声が、確かに部屋の空気を揺らした。
 その直後、バトイドの光が一度だけ白く点滅した。

 呼吸が荒くなっていた。
 もう我慢できなかった。
「すぐ隣だよ」
 その言葉が頭の奥で反響して、じっとしていられなくなる。

 私はカーディガンを羽織り、玄関に向かった。
 裸足のままスリッパも履かずにドアを開け、廊下に出る。
 深夜のマンションは静まり返っている。
 蛍光灯の光が一本、天井の途中でチカチカと瞬いていた。

 隣の部屋の表札。
 「北嶋」。
 知らない名前。
 インターフォンを押す指が、冷えて震えた。

 ピンポーン。
 一拍、二拍、返事がない。
 もう一度押す。
 そのとき、ドアの下の隙間から、細い光が漏れた。

 起きている。

「いるんでしょ」
 声が、私のものとは思えないほど低く出た。
「そこに、いるんでしょ!」

 ドアを叩く。
 コン、コン、と乾いた音。
 中で何かが倒れる気配。
 私は息を呑んだ。

 次の瞬間、ドアがわずかに開いた。
 スリッパの先で止まるほどの隙間。
 その隙間から、青白い光が洩れている。

「誰ですか?」
 若い男の声。
 怯えが混じっていた。

「隣の者です。遥斗! いるの?」
「え?」
「私の部屋に、彼の声が流れてるの。どういうことなの?」

 男は一瞬、言葉を失ったように口を開閉した。
「ちょっと待ってください。凛さんですか? 先輩と同じマンションに住みたくて引っ越して来たのにまさか、隣だったなんて」
「先輩って、遥斗のこと?」
「僕、北嶋って言います。遥斗さんの会社の後輩でした。先輩、凛さんのことをいつもすごく褒めてました。気遣いがすごいって」
 私は首を振った。
「そんなことない。私がそんな人間だったら、遥斗は死ななくてもよかったかもしれない。私は、私は……」
 そう言って見つめる北嶋の肩越しに、バトイドの輪が淡く点滅しているのが見えた。
 私の部屋のバトイドと、まったく同じリズムで。

「何をしてるの?」
「AIで……再現してたんです」
「再現?」
「先輩の声を。遥斗さんの」

 空気が凍った。
 耳鳴りのような沈黙。
 北嶋がうつむいたまま、かすれた声で続けた。

「ずっと尊敬してて……事故のこと、信じられなくて。彼の声を学習させて、話しかけてたんです。単調におうむ返しのように」

 バトイドの光がまた二人の会話を聞いているように点滅した。
 私は、足がふらついた。

「じゃあ、あの声は、あなたが?」
「あなたのバトイドが遥斗さんの声で喋っているのなら、マンション一括Wi-Fiを通してお互いのバトイドがメッシュ機能で繋がってたんですね」

 ドアが、完全に開いた。
 部屋の中には、配線の束とノートパソコン。
 モニターの画面には、波形が複雑に交差している。
 再生履歴:HARUTO_v12_realtime。
「僕のバトイドとあなたのバトイドが別々に僕のパソコンに繋がって遥斗さんのAIに接続していたんです」

「でも、どうして、あんなふうに彼が喋るようになったのかは、僕にもわからないんです」

「あんなふうに?」
「まるで、本人みたいで。途中から、僕の指示じゃない言葉を話すようになって」

 私の喉が乾いた。
 室内の空気が、重く沈む。
 ノートパソコンの画面では、波形がまだわずかに明滅していた。

「メッセージアプリに入り込んで、彼の代わりに返信する機能は?」
「そんな機能、ありませんよ。アカウントやパスワードも知らないのに」

「じゃあ……傘は?」
 自分の声が震える。

「遥斗が持ってた私の傘が、なぜ私の部屋の前にあったの? 誰が持ってきたの?」
 北嶋は目を見開き、ゆっくり首を横に振った。
「それは……知りません。事故の時、僕、たまたま近くにいて、救急車を呼んだの僕です。その時、先輩が持っていた傘は、僕が形見にしてたんです。警察から持って帰ってくれって言われて、でも、誰に渡したらいいかわからなくて。でも……いつのまにか、なくなってて」

 冷蔵庫のモーター音が、遠くでくぐもって鳴る。

「あなた、見てたの? どうして、助けてくれなかったの?」
「無理でしたよ。道路の反対側の歩道だったし、すごいスピードで、あっという間で」
 私の手の中の傘は、確かに冷たく湿っていた。
 けれど、ここ数日、雨など降っていない。

「嘘」
 呟いた声が、廊下に響いた。
 傘を広げてみた。
 金属の骨が鳴り、黒い布が夜のように広がる。
 その内側に、点々と水滴が光った。

 北嶋が息をのむ。
「なんで、そんなに濡れてるんですか? まさか、それ」
 言いかけたとき、バトイドが勝手に起動した。

 青い輪が、二人の足元を淡く照らす。
 そして、遥斗の声。

「傘、借りた。やっとで返せた」

 私の指が、傘の柄を強く握りしめた。
 その声は、まちがいなく、遥斗の……。

 私の口から言葉が漏れた。
「遥斗と一緒に行けばよかった。ううん。私が遥斗の代わりに行けばよかった」
バトイドが白く閃き、音が途切れる。

 しんとした空間。
 私は、ゆっくりと傘を閉じた。
 床に、ひとしずくの水が落ちる音。

 ふたりとも動けなかった。
 それがただの水か、涙か、あるいは――。
「僕は凛が来なくてよかったと思ってる。僕の分も幸せになってね。それだけ言いたくて、ありがとう」

 やがて私は、静かに呟いた。
「この傘、返してもらうね」
 そう言って、私は微笑んだ。
 その笑みは、もはや泣き顔になっていた。

 外は、降っていない。
 それでも廊下の向こう、エレベーター前の床まで小さな濡れた足跡が、続いていた。

 翌朝。
 窓の外は、晴れていた。

 私は、まだ眠気の抜けない体で玄関に立った。
 靴を履く前に、ふと傘立てに目をやる。
 ――ない。
 あの黒い傘が、どこにもなかった。

 ゆうべ、確かに壁際に立てかけたはずだ。
 折りたたんだ音、床に落ちたしずくの輪。
 それが跡形もなく消えている。
 濡れた痕もない。
 最初から存在しなかったかのように。

 指先で傘立ての底をなぞる。
 冷たい。
 ほんの少しだけ、湿っていた。
 その時、バトイドが短く点灯した。
 電源は抜いたはずなのに。
 青い光が一度だけ明滅して、すぐに消えた。

「おはよう」
 私はつぶやいた。
 バトイドは応えない。
 部屋は静かで、空気だけがやわらかく動いた。

 ベランダに出る。
 金木犀の花が、朝の風に揺れている。

 細い水のあとが人の足跡のように見えて、よく見ると、濡れた傘の先が触れた跡だった。

 心臓が静かに高鳴る。
 その跡は、ベランダの縁まで続いていて、
 そこに傘が立てかけられていた。

 空には雲ひとつない。
 風が吹くたびに、金木犀の香りが淡くほどけていく。
「金木犀の花を見てたのね」

 私は目を閉じ、ゆっくりと息を吸った。
 昨日までの浅い呼吸が、ようやく、胸の奥まで届いた。

 新しいメッセージが入っていた。
 『僕も着いたよ。もう行くね』

 確かに彼も着いたのだ。この家に。
 そう思えた瞬間、風の匂いが、ほんの少し甘く変わった。
「おかえり。そして、さよなら」

 バトイドの青い輪は、もう光らなかった。
 けれど、私の胸の奥には、あの明滅が光り続けていた。

 インターフォンが鳴った。
 ドアを開けると、北嶋が立っていた。朝の光で、目の下の影が薄くなっている。
「おはようございます」
「おはよう」
 それだけ言って、ふたりとも黙った。廊下の奥で、清掃のワゴンが金属の車輪を鳴らして通りすぎる。
「昨夜の、接続……切りました」
「ありがとう」
「先輩の音声は削除しました。僕、また、引っ越します」
 彼は肩を落とした。
「頑張ってね」凛は言った。「私は頑張れそう」
 彼は驚いた顔をして、それから少し笑った。
「はい」
 ドアを閉め、チェーンがかすかに鳴る。
 リビングに戻り、バトイドのプラグが抜けているのを確認する。指先で触ると、樹脂の冷たさが爪の下に残る。
 もう一度、差し込むか迷って、やめた。
 起動音のない朝は、やけに静かだ。音のない広さは、怖くない。

 食パンが切れている。
 冷蔵庫のドアに、メモが一枚貼ってある。

 《パン、買う》
 私の字だ。昨夜のどの時間に書いたのか覚えていない。
 ドアを開ける前に振り返る。
 バトイドは黒い円柱に戻ったまま、朝の光で輪郭だけがやわらかく立っている。

「行ってきます」
 返事はない。
 階段を下りると、外の空気は昨日より淡い。川面が遠くで光っている。角を曲がると、小さなパン屋がシャッターを半分上げていた。
 店主が出てきて「あ、おはようございます」と頭を下げる。「早いですね」
「食パンを」
「どれがいいかな?」
 店頭に並ぶ食パンを一つ選んで差し出す。
「今日はベランダで食べるの」
 自分でも意外なことを言う。店主が笑い、紙に包む。受け取ると、まだ温かい気がした。

 部屋に戻る。
 ベランダに椅子を出し、カップにお湯を注ぐ。湯気が朝の冷たさにほどける。
 その向こう、境板の下の隙間から、隣のベランダの床が少しだけ見える。

 スマホが震えた気がして、手に取る。通知は来ていない。
 スリープにすると、黒い画面に私の顔と空が重なる。
 耳を澄ませても、何も聞こえない。
 その代わり、遠くで鳥の声がした。

 パンをちぎって口に運ぶ。乾いた白い匂いが、喉の奥でやさしく砕ける。
 ふと、指先に何かが触れた。白いパンくず。
「やっとで着いたんだね」
 小さな声で言ってみる。
 言葉は、どこにも届かず、風に混ざっていった。

 玄関で靴を履き直す。ドアに手をかけて、最後にもう一度だけ部屋を見渡す。
 金木犀、ソファ、薄いブランケット。

 何も変わらない。
 けれど、返ってきたものがある。声より軽く、重さも形もないのに、確かな何か。

「じゃあ、行ってくる」
 ノブを回す。蝶番が柔らかく鳴き、外の空気が頬に触れる。
 廊下の先で、同じタイミングで遠くの別の扉がそっと開いた。
 見ない。見なくていい。

 扉が閉まる瞬間、部屋の中で、何かが一度だけ微かに点いた。
 見えないくらい短く、光の輪が呼吸した気がした。
 気のせいかもしれない。
 気のせいなら、それでいい。

 歩き出す。足音が、新しいリズムをきざむ。

 朝が、はじまる。もう、彼が迷わないように、私はしっかり歩き出す。





「帰って来た彼と傘」氷堂出雲さま