夜明け前

 仕事を終え職場を出て、はじめてスマホの着信に気が付いた。母から何度も電話がかかっている。
 一体何ごとかと折り返す。
 2コール目の途中で出た母は押し潰されそうな声で言った。
「お父さん、もう危ないの。みさちゃん、早く帰ってきて」
 私は言葉が出なかった。

 父は癌を患い放射線治療と抗がん剤治療をしていた。
 手術をしたが取り切れなかった。体調が悪いのを無視して半年も病院に行くのを先延ばしにしていた。母が何度も言い聞かせてやっと病院へ行くと癌だと分かった。
 転移に次ぐ転移。最終的には肺に転移し酸素ボンベが必要になった。治療を諦め自宅での緩和ケアをしていたがいよいよという時は病院に連れて行くよと母は言っていた。苦しそうにしている父を見ていられないから。

 地元を離れて就職していた私は、焦る気持ちを抑えて車を走らせた。地元の病院まで車で一時間半かかる。

 この期に及んで、自分にできることはないか。自問自答する。
 できることはない。あればもうやっているはずだ。

 病院の駐車場に車を停めた。辺りはすっかり暗くなり、ひとけもない。等間隔で立っている外灯の光を頼りに入口へ向かう。自動ドアをくぐる頃には十九時を過ぎていた。
 入ってすぐの待合フロアに妹がいた。妹は結婚して隣県に住んでいた。
「みさ姉こっちよ」
「うん」
 妹に案内されて廊下を歩く。
「早かったね。いつ来たの?」
「昨日から実家に戻ってたんだよ。私〇県じゃん。間に合わないかも知れないからさ」
「そうだったんだ」
 妹は看護師だ。母が頼りにしているのは知っている。それもあって母は先に妹へ父のことを知らせたのだろう。

 病室に入った。 

 母、妹の旦那さん、子供たち、弟夫婦と子供たち、叔父さんも揃っていた。
 こんな時に、独身の私が感じているのは疎外感だった。ずっと実家にいられたら皆の中に入れてもらえたのだろうか。

 父は、呼吸器は付けず、苦痛を和らげるためにモルヒネの投与を行っていた。
「みさちゃん、よく戻ってきてくれたわね」
 母が言った。
「戻るに決まってるでしょ」
「仕事は?」
「休みは取ったから大丈夫だよ」
 とはいえ、職場は人手不足で毎日大変なことはよく知っているから、休むことに罪悪感があった。
会社に電話したら「そんなの気にしなくていいから休んでいいよ」と言われた。すごくほっとした。

 多くの家族、親族に囲まれて、父は人徳のある人だったのだと改めて思う。
 父はもう話ができる状態ではなかった。
 呼吸が苦しそうだが、こっちは何もできない。
「お父さん、みさちゃん帰って来たよ」
 母が父に呼びかけた。
 父が、顔を少しだけ私の方に向けたが、やはり苦しくて話せる状態じゃない。
 私はベッド際に歩み寄るが、無力感しかなかった。
 父が急にそれまで以上に苦しみだし、身じろぎした。母が慌てて看護師を呼ぶ。
 すぐに看護師が来た。私たちを動揺させないためなのか、普通のことのように母に話しかけ、モルヒネの追加投与をし、部屋を出て行った。
 父は、少し落ち着いてきて、母はまだ子供たちが小さい弟夫婦を家へ帰るよう言った。病院からそれほど遠くないので何かあればすぐに来られる。
「お父さんには私たちがついてるから。子供たちを寝かせてあげて」
 弟夫婦は子供たちのために母の言葉に従って帰って行った。
 母は叔父さんにも帰るよう言ったが、叔父さんは「俺は少々寝なくても大丈夫だから」と残ってくれた。

 母は飲み物を買って来ると部屋を出て行く。私も手伝おうとついていった。

 もう売店は閉まっているので、下の階の自動販売機で人数分の飲み物を買った。
 病院は消灯を迎えて薄暗いが、自動販売機の放つ光は明るく、付近を照らしていた。母は近くにあったソファへと力なく腰を下ろした。
「なんでこんなことになっちゃったんだろうね」
 母が苦笑を浮かべて言った。電話の時の暗い声とは打って変わって、明るい声だった。
 私は、母を薄情とは思わなかった。母はいつも強い。家族にまつわるあらゆることをいつも先回りして段取りのほとんどを一人でこなしていた。気の強い完璧主義でなにより世間体を気にする。こう言うとフォローになっていないが、昭和の人間というのは世間様に迷惑をかけず、恥をかかないことが何より大事なのだ。母の頭の中には既に通夜や葬式の段取りが駆け巡っていた。
「朝まではもたないかもってお医者様が言ってたのよね。友引はダメでしょ。すんなり死んでくれたらいいんだけど」
 露骨すぎて、フォローしきれない。
 私は、母の隣に座った。電話の時の暗い声が気になって訊いてみる。
「お母さんこそ、大丈夫なの?」
 すると母は、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに顔を歪め、音量を抑えた声で答える。
「大丈夫な訳ないじゃない。もう、なんでお父さん、こんなことになっちゃたの」
 目に涙が滲んで赤くなっていた。
 ああ。やっぱり、人というのは表面だけじゃわからないな。 母は悔しそうに呟く。
「私が悪いの。無理してでも、もっと早くお父さんを病院に連れて行けばよかったのよ」
「でも、本人が拒否してたんでしょ」
「そうなのよ。怖がってたの。自分でもおかしいって思ってたみたい。あの人案外弱いところあるから」
「そうだね」
 気の強い母とは対照的に、父は物静かで無口だった。
「お父さん、私に一目惚れだったのよ」
 急に母がぶっこんで来た。
 私は面食らって言う。
「何の話? 今まで聞いたことないけど」
「だって話してないもの。お父さんのナンパだったのよ。お父さんが私に声を掛けてきたの」
 母は一時期、地元を離れ、新設された大阪支社に派遣されていたことがあったという。そこにトラックドライバーの父が荷物を届けに行ったことで知り合ったという。
 搬入が終った後、父は搬入の手伝いをした母に「仕事が終ったら遊びに行かないか」と声を掛けたらしい。
「嫌って言ったけどね」
 母は、にやりとしてそう言った。
 なにそれ。モテ女のセリフじゃん!
 私は内心あきれ返っていた。どうなってるんだ。よくあんたみたいな女から私みたいな自信のない子供が生まれたな。私はずっと結婚なんて出来ないと思ってたし、事実、今も未婚だし。分けてくれよその自信。
 子供の頃にその話を聞いていたら、もっと違う自分になれたのだろうか。

「こう見えて、お母さんもてたのよ。他の人からも声かけられてね。でも付き合わなかったわ。お母さん、そんなに軽くないの。そうこうしている間にお母さんも、お父さんも大阪の仕事が終ってね、地元に戻って来たの。それから何だか良く分からないけど、お父さんと付き合い始めたの。お父さんは他の人と違ってたわね。お酒は付き合い程度だし、ギャンブルもやらないし。真面目だし、努力家だし、ちゃんとしてたわ。この人となら一緒に生きていけるかなって思ったの」
 実際に父は、長年真面目に働いていた。羽目を外すということがなかった。私は、自分の仕事に誠実に向き合っている父を尊敬していた。
 人は誰でもいつか死ぬとは言え、煙草もやらないような真面目な人が、癌になって平均寿命にも満たず早死にするのか。
「不公平よね。どうしてお父さんなの」
 母がぽつりと呟いた。声が震えていた。
 私は、そうだね、としか言えない。
「孫たちがもう少し大きくなったら、二人で旅行でも行こうって言ってたのに」
 母の声には後悔が滲んでいる。どうしてもっと早く病院に連れて行かなかったのか、そう自分を責めているのだろうか。
「お母さん、お父さんのことは、お母さんのせいじゃないからね」
「でもね、お母さん、悔しいの。なんでお父さんなの」
 母が言っているのは祖父母のことかも知れなかった。高齢の祖父母は、まだ元気で死にそうにない。母は、昔から祖父母と折り合いが悪く、二人がいないところでいつも毒を吐いていた。
「こういう時、あの人たちは絶対来ないの。自分の息子なのに」 
 高卒で実家を出て離れて暮らしていた私には母が言うほど祖父母が悪い人に見えていなかった。確かに子供の頃は祖父が怖かった。家は完全な封建社会で実権は祖父が握っていた。子供だった私は母が受けた仕打ちを詳しく知らないからそう思うのかも知れない。母はいつも何も言わない。良いことも、悪いことも。のろけ話も、なれそめすら話していなかったのだ。
「お父さん、本当は夢があったの。こんな事なら、もっと好きにさせてあげてればよかったのかな」
「夢?」
 また聞いたことない話だ。
「お父さんの親戚のおじさんがね、陶芸家だったの。それでお父さん、若い頃から自分の窯を持って陶芸家になるのが夢だったのよ」
「ええええええ?!」
 寝静まっている夜だというのに私は思わず大声を出し、目を剝いた。
 初耳ですよ、そんな話。
 母は気にせず言葉を紡ぐ。
「でも、あの人たちが反対したの。私、あの人たちに何も言えなくて……。お父さん、若い頃に、陶芸家の先生に弟子入りして修行してたのよ。十年だったかな。弟子だから、お父さんがいつも登り窯の火を入れてたの。そういうの全部やってたのよ。すごいでしょ。登り窯、分かる?」
「なんとなく……。地方都市が舞台のサスペンスドラマなんかに出てくるやつだよね。事件の関係者で、伝統を守ろうとする口数の少ない気難しそうな職人が薪くべてる……。あの、レンガとかで作ってあるピザ窯みたいなやつ」
「ピザ……良く分からないけど、伝統的な、職人が作るような窯よね。そうよ」
 私は、しばらく呆然として言葉が出て来なかったが、やがて思った。
「それ、もっと早く知りたかった」
「そう?」
 母はけろっとして言った。
 私は、どうやら母というより父に似たらしい。
 私も実は、小説家の真似事などをしている。まだ自信がなくて、家族の誰にも言えてないけれど。
「飲み物が冷めちゃったわね」
 母が、手に持っていたホットの缶コーヒーに視線を落とした。
 どうして今夜、こんな話になったのだろう。今まで二人は一言も話してこなかったのに。
 母は顔を上げると私を見た。
「みさちゃん、しっかりやるのよ。家を離れて一人で生きてるんだもの、みさちゃんは充分立派よ。でも何かあったらすぐ言うのよ。お母さん、いつだってみさちゃんの味方だからね」
 私は、うっかり泣きそうになって、歯を噛み締めるように口角を上げる。
「うん」
「戻ろうか」
「うん」 

 数時間後、父はみんなに見守られながら息を引き取った。 白々と夜が明けるより、少し前のことだった。





「夜明け前」橘風さま