アイツとソイツ

 目を開けた瞬間から、夜が始まった。
 部屋の中は黒い空気と静けさで満たされ、ベッドサイドの窓からわずかに差し込む青みを帯びた光は街灯か、近所のパチンコ店の看板か未だ判別は難しい。僕は枕元に積み上がった本の塔へ手を伸ばし、頂上に鎮座するアナログ時計を掴み取った。特に蓄光でもない盤面を凝視することやや少し、時刻は二時十三分か十四分。
 時計をまた塔のてっぺんへ戻し、ゆっくりと意識して呼吸する。吸う。スマートフォンを手に取ろうか? 吐く。目を閉じて寝直そうか? 吸う、予感がある、きっとアイツから連絡が来ている。僕はまた枕元へ手を伸ばし、本の塔からやや離れた定位置にあるスマートフォンを顔の前まで引き寄せた。
 夜を煌々と照らす、暴力的な光。昼間は全く気にならないのが嘘のような強い光に瞬きを繰り返しながら見た画面には、予感通りアイツからのメッセージが表示されている。
『飯食ってる』
 そのままトークルームへ移行すれば、閑散としたファミリーレストランの店内写真が先に送信されていた。ドリンクバーの機械、誰もいないボックス席、わずかに写り込む窓の外はこの部屋とは違い、青や白や赤、賑やかな光で満たされている。写真とメッセージは連続して送信され、時刻は奇跡の二時ちょうど。既読の表示を確認したのか、僕が返信をする前に、
『来いよ』
 とメッセージが表示された。それにもすぐに横へ既読の表示がつく。
『今起きた。これから行くから』
 僕のメッセージにも既読、そして見知らぬ丸っこい鳥がOKを抱えたスタンプが続いたのを確認してからスマートフォンを置き、朝起きる時と同じく大きく伸びをした。横向き、しかも肩を丸めるようにして寝るせいで肩はいつも強張っている。仰向けで寝ればいいのは分かっていたが、それをするには僕の顎は細いらしい。すぐに舌根が気道へ落ち、自分のいびきで起きてしまう。
 そういえばアイツの顎はどうなんだろう。頭の中で顔、正確には顎の形を思い出そうと努力してみたがどうにも焦点が合わない。アイツが好んで着ている派手な柄シャツばかりが主張をし、最終的には顔が百鬼夜行絵巻柄になってしまった。今年の新作だったはず。冬にはダウンジャケット姿も見ていたはずだが、どうにも柄シャツのイメージが強かった。
 まぁこれから会うのだから、その時に確かめればいいだろう。僕はもう一度伸びをし、ベッドを抜け出した。部屋は変わらず静寂を保っている。その静寂が、今は夜なのにと、外へ出ようと支度をする僕を咎めているようで後ろめたさと同時に規則を破るような愉快さをも与えてくれた。大学時代すら遠のいてきたが、少年の時分にやらなかったことに対しては未だ胸が高鳴ってしまう。ここ一年で、深夜に外出する経験は一気に増えたというのにまだ足りないのだろうか。
 苦笑しながらマンションを出ても月は特に見えない。夏とも秋ともつかない生温い風が、やや離れた大通のざわめきを運んでくる。喧騒の気配だけが漂う道路の端を普段より気持ちだけ早く歩いていく、それがまた僕の気持ちをぽんぽんと弾ませた。昨日は眠っていた時間に起きている、外出している、飲食しようとしている!
 自分でも子供じみているとはわかっているが、だからといって高揚する気持ちが落ち着くこともない。会社の飲み会や、予めの予定では味わえない浮かれた気分を味わいながら駅近くのファミリーレストランを目指す。テールランプがやけに赤い。深夜のファミリーレストランでだけ会う、アイツの存在もこの楽しさに貢献しているのは間違いなかった。
 始めて出会ったのは一年程前、会社の飲み会後だというのに小腹が空き、大して楽しくもなかった飲み会へ復讐してやろうと、今日と同じ駅近くのファミリーレストランへ入店した時。
 席はがらがらで、お好きな席へどうぞとやる気なく声をかけられた瞬間、ボックス席に座るアイツと目が合った。ばちりと音のしそうな噛み合い方に焦り、逸らそうとしたところで何故か、手招きされたのだ。
 緩く波打つ茶髪に、カーキへ幾何学模様を描いた柄シャツが目を引く、見知らぬ男の誘いに乗ったのはそれなりに酔っていたからか、復讐の一環か。今となってはよく覚えていないが、それでも僕は気づけばアイツの向かい側へ座り、無言のまま同じラム肉のステーキを注文した。
 アイツは夜だというのに淡いウィスキーのようなサングラスをかけ、その向こう側から当たり前のように、ラム肉って美味いよな、低い声で笑った。確かに。僕も笑ったのが始まりだ。
 それから月に一、二回、アイツは深夜のファミリーレストランから僕を呼ぶ。僕は予感のあった時、眠れない時、呼び声に応える。基本的には朝型なので連絡を見逃すこともままあるが、アイツは気にせず、僕は謝罪しない。気を遣う関係ではないからだ。
 服装規定の緩いIT関係でテスターをしていること、ラム肉と炭酸飲料が好きで酒には弱いこと。独身で恋愛には興味がないけれど会話に頻出する名前があること、まるで友人のように細かな部分ばかりを知っているが名前は知らないアイツ。
 そしてアイツも、僕が小売店業で営業職をしていること、ラム肉より実は牛肉が好きで酒はもっと好きなこと。何よりも、大学時代から同性の友人が好きなことを知っているのに、僕の名前があづまであることを知らない。
 人が多いわけではないのに大通には騒がしさの名残が漂っている。行き交う車は昼間よりも少ないがその分忙しなさをまとい、ヘッドライト、テールライト、白と赤の輝きが流れていく。時折すれ違う人も半袖と長袖が交互で、今が季節の狭間であることを知らせている。そう、知らせ。
「知らないからこそ話せること、ってのがあるから」
 知ってると聞けないこともあるし。
 連絡先を交換しながら名前を聞いた時、アイツはサングラス越しの大きな目で瞬きしながら呟いた。名前は大切だ。自分が何者なのかを伝える手段、そして自覚する記号。僕を信用していないのなら偽名でもいいものをあえて伝えない。
 アイツは僕の前では、というより深夜のファミリーレストランにいる時には誰でもないのだろう。夜には確かに、そんな曖昧さを受け入れる度量がある。僕は少しだけ考えてから、目の前にいる誰でもない派手めな男をアイツとして登録した。
「いいじゃん、それ」
 笑うとほんの少しだけ愛嬌が増す。
「僕も、コイツよりはいい感じだと思う」
 僕らの距離感がよく出てる。近くはないが決して遠くはない距離感だ。
 アイツはしばらく指を彷徨わせた後、スーツ姿で酔いの回った僕のことをソイツとして登録した。
 辿り着いたファミリーレストラン、ドリンクバーを左にした奥のボックス席から、アイツが僕に向かって手のひらを見せる。僕も軽く手を挙げ、店員に待ち合わせですと断ってからボックス席へと向かう。
 今日と呼ぶには早すぎて、それでも昨日ではない深夜のファミリーレストラン。アイツはおかわりで頼んだラム肉のステーキにドリンクバーのコーラを添えて、ソイツ――僕はビールのお供にサーロインステーキを選んで、語り出す。アイツの顎は僕よりもしっかりとしていた。これなら仰向けでも寝られるだろう、羨ましい。
「そういえば丸っこい鳥って何なの? ほら、スタンプの鳥」
「丸っこい鳥……あぁ、キーウィ。最近雑貨とかでよくいるじゃん、知らんの?」
「知らない」
「可愛いのに」
 夜は誰でもないふたりの話を、今回もただ懐深く聞いている。




「アイツとソイツ」朝本箍さま